そうして打撃フォームを固めた野村は4年目の1957年、打率3割2厘を記録する。30本塁打でホームラン王に輝いた。「プロでやっていける」と自信を手中にした。
だが、1958、59年と成績が思うように伸びない。打率は2割5分3厘、2割6分3厘で、本塁打はいずれも21本。守備の負担の多いキャッチャーというポジションを考慮すれば、決して悪い成績ではないが、野村は納得できなかった。
そこにこそ、一流と二流の差がある。
「一流選手の共通として、自己満足をしない。妥協、限定、満足は禁句。『俺はこれくらいやれればいい』と思ったら、それで終わり。下降線をたどっていく。一流の人は成績を残せば給料に跳ね返ってくるから、年俸に対する意欲もあって、現状に満足しない。そういうものを共通して持っている」
野村は、「バッティングには限界がある」と言う。野球は相手のあるスポーツで、打者は打率3割を打てば一流と評価される世界だ。打撃とは、それほどに難しい。だからこそ、野村は「プロで生き残っていこうと思ったら、限界から先のことをやらなければならない」と言う。
「殴られたほうが忘れてないぞ」
投手のクイック投法、ストライクゾーンを9分割する配球表など、日本球界に独自の方法論を定着させてきた野村だが、彼の代名詞のように語られる言葉がある。「ID野球」だ。日本野球にデータという概念を定着させたのは、野村だった。
プロ入り6年目の野村が打率2割9分1厘、29本塁打と過去2年の壁を打ち破った裏には、ある先輩の一言があった。思うような結果を出せずに悩む姿を見て、田中一朗という選手が声をかけた。
「ぶん殴ったほうは忘れていても、殴られたほうは忘れていないぞ」
ヒットを打った打者はその打席について忘れても、打たれた投手は「次こそはやり返してやる」と苦い記憶を脳裏に刻み込む――野村は先輩の言葉をヒントに、相手投手の視点に立った。
当時の南海では、毎日新聞の記者だった尾張久次が球界初のスコアラーを務めていた。野村は自身に対する相手投手の球種、コースをすべての試合で出すように頼み、12種類別のストライクカウントに当てはめた。初球はどんな球で入り、1ボール2ストライクの場面では何をどこに投げてくるのか。1957年と58、59年の2年間を比較すると、相手の攻め方が変わっていた。
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