漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
中国の地図のイメージ
中国の歴代王朝に存在した「後宮」の、壮大な歴史をひも解いてみましょう(写真: Ystudio/PIXTA)
中国の歴代王朝に存在した、小都市並みの規模を持つ巨大な密室、後宮。それは言わば「皇帝の世継ぎを安定的に供給するシステム」であり、後宮には多数の后妃と、彼女らに仕える宮女や宦官がひしめいていた。数百人にのぼる皇帝の大半は後宮で生まれ、後宮で死んだとされている。
「国」と「家」、公的な外廷政治と密室的な内廷政治の二本立てという中国式国家システムは、3000年以上も存続に成功した。中華帝国の本質は後宮を見ることでわかるのだ。
この巨大な密室から歴代王朝を見た、類書なき中国史『後宮 殷から唐・五代十国まで』(加藤徹著)より、漢の武帝劉徹の時代に皇后までのぼりつめた2人の宮女の波瀾万丈な生きざまを紹介する。

武帝と陳皇后の知られざるなれそめ〜金屋蔵嬌〜

中国の本格的な後宮の「歴史」は武帝の時代に始まる。規模の大きさ、個性的な女性の多さ、贅沢ぶり、はちゃめちゃぶり、どれを取っても、漢の皇帝・武帝の後宮は日本人がイメージする中国の後宮である。

上流階級の誇り高き令嬢と、庶民出身の美女と、どちらが良い皇后になりうるか、という不毛な「実験」を行ったのも武帝が最初である。

16歳の若さで皇帝となり、70歳で崩御するまで全盛期の漢帝国に君臨した武帝の後宮を紹介するには、本まるごと1冊を費やしても足りない。ここでは後宮の后妃、陳皇后(正式には孝武陳皇后)と衛皇后について紹介する。

武帝の最初の皇后となった陳氏は、いとこであり、幼なじみだった。「いとこ婚」は日本では今も昔も合法である。だが、中国では、時代によっては「いとこ婚」は法的に禁じられた。現代の中国でも禁止である。けれども、過去には、いとこ婚が合法だった時代も長かった。

例えば、宋代の実話をふまえた古典小説『嬌紅記』の主人公の男女はいとこどうしという設定で、いとこ婚は公的には非合法だが実社会では広く行われ、官憲もお目こぼしをしていた、という微妙な時代設定になっている。

次ページはこちら
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事