漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も
「金屋蔵嬌」(きんおくぞうきょう。金屋に嬌を蔵す)の故事は有名だが、出典は『漢武故事』という逸書である。『漢武故事』は、正統の歴史書に見えない武帝にまつわるエピソードを載せる雑書で、幼い武帝が本当にこんなませた言葉を述べたのかどうかは、疑わしい。
ちなみに、「阿嬌」こと陳氏と武帝のどちらが年上だったのかは、わかっていない。
命を懸けた闘いも。「皇后の妊活」の実態
陳氏は、皇太子妃となり、武帝の即位後は皇后に繰り上がった。が、周囲から期待されたにもかかわらず、彼女はいっこうに妊娠できなかった。
そうこうしているうちに、武帝の側室である衛子夫が寵愛を受け、次々と子どもを産んだ。陳皇后は衛子夫に嫉妬し、怒りのあまり死にかけたことがしばしばあったほどだった。武帝が皇太子になれたのは自分の母親である館陶長公主のおかげなのに、という傲慢な思いを、彼女は常に抱いていた。
前135年、武帝の祖母である竇太皇太后が死去。彼女は儒教が大嫌いで、余計なことをしない無為の政治を理想とした。若い武帝は、政治家としてやりたいことはたくさんあってうずうずしていたが、この偉大な祖母が生きているあいだは我慢していた。竇太皇太后が亡くなると、その年のうちに22歳の武帝は南の福建地方に大軍を派遣する。また、翌年には儒学の士を大量に召し抱えた。
陳皇后の立場は、実母と並ぶ後ろ盾であった祖母・竇太皇太后の死後、ますます悪化した。彼女は武帝にうとまれ、長門宮に移り住んだ。
『文選』(もんぜん)巻十六に収録されている司馬相如(しば しょうじょ)の美文調の韻文作品「長門賦」は、陳皇后が、武帝の愛を取り戻すため、貧乏文人の司馬相如に黄金百斤を与えて代筆してもらった作品、と伝えられる。漢代の百斤は約26キログラム。金1グラムの価格を日本円で仮に1万6000円として計算すると、黄金百斤は約4億円に相当する。
武帝は「長門賦」を読んで陳皇后の気持ちを知り、ふたたび彼女を寵愛するようになった──という文学上の有名な伝承は、後世の噓らしい。史実では、武帝の気持ちは陳皇后から離れたままだった。
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