中国王朝・隋の時代、嫉妬に狂った皇后が色恋だらけの後宮でまさかの「一夫一婦制」を実施 罪のない者の死、皇帝の"奇行"…招いた波乱の数々

インテリだが嫉妬心がすさまじかった独孤伽羅
隋の初代皇帝となった文帝こと楊堅(よう けん)は、優れた政治家だった。体系的な律令を定め、外廷の制度を大胆に改革した。身分に関係なく優秀な人材を登用するための官吏登用試験「科挙」の制度を始めたのも、楊堅である。楊堅の改革は唐以降の歴代王朝、および日本など近隣諸国にも大きな影響を与えた。
内廷、すなわち後宮でもユニークな変化があった。こちらの立役者は皇后の独孤伽羅(どくこから)である。
独孤は北族系の名門貴族の姓で、伽羅は個人名である。彼女は西魏の時代に生まれた。当時の女性としては珍しく文字の読み書きができ、読書を好み、性格も強かった。彼女は数え14歳で、当時17歳の青年・楊堅に嫁いだ。
楊堅の家も名門で、楊堅は父親の七光もあって、わずか14歳で功曹、15歳で散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・成紀県公、16歳で驃騎大将軍・開府儀同三司、と出世街道を驀進中だった。
独孤伽羅は結婚にあたり、楊堅に、自分以外の女性を寵愛しないように誓わせた、と伝えられる。妻妾制の時代に、事実上の一夫一婦制を望み、夫に約束させた珍しい例である。
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