中国王朝・隋の時代、嫉妬に狂った皇后が色恋だらけの後宮でまさかの「一夫一婦制」を実施 罪のない者の死、皇帝の"奇行"…招いた波乱の数々

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後宮 殷から唐・五代十国まで
独孤伽羅は結婚にあたり、楊堅に、自分以外の女性を寵愛しないように誓わせた、と伝えられる(写真:トッキー・ナガタ/PIXTA)
中国の歴代王朝を“裏”から支えたとされる、後宮。その密室には后妃と、彼女らに使える宮女や宦官が多数存在し、数百人もの皇帝を産み落とした。後宮をきっかけに歴史が動くこともあり、後宮の紛争を国政に持ち込んだ皇帝や、夜の営みのために命を縮めた皇帝もいた。
3000年以上も存続に成功した国家システムは、いつの時代にも波乱や嫉妬、陰謀がうごめいていた。明治大学法学部教授の加藤徹氏が綴った『後宮 殷から唐・五代十国まで』より、隋の時代に起こった“珍事”や凄惨な事件をお伝えする。

インテリだが嫉妬心がすさまじかった独孤伽羅

隋の初代皇帝となった文帝こと楊堅(よう けん)は、優れた政治家だった。体系的な律令を定め、外廷の制度を大胆に改革した。身分に関係なく優秀な人材を登用するための官吏登用試験「科挙」の制度を始めたのも、楊堅である。楊堅の改革は唐以降の歴代王朝、および日本など近隣諸国にも大きな影響を与えた。

内廷、すなわち後宮でもユニークな変化があった。こちらの立役者は皇后の独孤伽羅(どくこから)である。

独孤は北族系の名門貴族の姓で、伽羅は個人名である。彼女は西魏の時代に生まれた。当時の女性としては珍しく文字の読み書きができ、読書を好み、性格も強かった。彼女は数え14歳で、当時17歳の青年・楊堅に嫁いだ。

楊堅の家も名門で、楊堅は父親の七光もあって、わずか14歳で功曹、15歳で散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司・成紀県公、16歳で驃騎大将軍・開府儀同三司、と出世街道を驀進中だった。

独孤伽羅は結婚にあたり、楊堅に、自分以外の女性を寵愛しないように誓わせた、と伝えられる。妻妾制の時代に、事実上の一夫一婦制を望み、夫に約束させた珍しい例である。

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