中国王朝・隋の時代、嫉妬に狂った皇后が色恋だらけの後宮でまさかの「一夫一婦制」を実施 罪のない者の死、皇帝の"奇行"…招いた波乱の数々

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607年、煬帝が帝位について4年目。倭国から2回目の遣隋使が来た。小野妹子が煬帝に渡した国書には、『隋書』によると以下のような文句が書いてあった。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」

太陽が昇る国の天子から、太陽が沈む国の天子に、お手紙を差し上げます。お変わりありませんか、という意味である。

煬帝は不機嫌になり、役人に「野蛮人の手紙に無礼な文言があったら、今後は自分に見せるな」と命じた。倭国は未開の小国のくせに、中華帝国と対等の口をきく。しかも「太陽が沈む国」などと、隋の没落を暗示する不吉な言葉を使ったからだ。

煬帝は暴君? 語り継がれる悲惨な最期

不吉な言葉は、現実になった。大分裂時代の余燼(よじん)は、まだ冷えていなかった。

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その後、隋は反乱が相次いだ。618年、煬帝は、12歳のわが子が斬り殺されるのを目のまえで見たあと、自分は首を絞められて殺された。50歳だった。隋は滅亡した。

煬帝は並外れた暴君で、奢侈(しゃし)と荒淫にふけって国を滅ぼしたとされ、いろいろな物語が伝えられている。ただし、後世の粉飾も多いようだ。煬帝がめとった后妃の数は10人ていどにすぎず、息子は3人、娘は2人と、もうけた子どもの数も、歴代の皇帝にくらべれば少ないほうである。

煬帝の娘は隋の滅亡後も生き残り、うち1人は唐の第二代皇帝・太宗の妃となった。

加藤 徹 明治大学法学部教授

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かとう・とおる / Toru Kato

1963(昭和38)年、東京都に生まれる。明治大学法学部教授、日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事。専攻は中国文化。東京大学文学部中国語中国文学科卒業。同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。90〜91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学。広島大学総合科学部助教授等を経て、現職。『京劇 「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞。他書に『西太后 大清帝国最後の光芒』(中公新書)、『漢文力』(中公文庫)などがある。

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