中国王朝・隋の時代、嫉妬に狂った皇后が色恋だらけの後宮でまさかの「一夫一婦制」を実施 罪のない者の死、皇帝の"奇行"…招いた波乱の数々
604年、色に溺れた文帝は病気になった。危篤の際、侍者に「皇后が生きていたら、わしもこうはならなかったろうな」と述べた、と正史『隋書』は伝える。
隋の第二代・煬帝となった楊広は、本性を現した。父の後宮の美女、宣華夫人陳氏と容華夫人蔡氏を、わが者として寵愛したのだ。
『隋書』には、皇太子・楊広が病床の父の死を待ちきれず陳氏に関係を迫ったこと、楊広の本性を知った文帝が激高し、「みな独孤のせいだ」と後悔して廃太子の楊勇を呼び寄せようとしたこと、その直後、文帝は密室で謎めいた死を遂げたこと、などを記す。ここまでくると、どこまでが真実で、どこからが煬帝を誹謗するための後世の作り話なのか、判断に迷う。
たしかなことは、独孤皇后の一夫一婦主義が、時代を先取りしすぎていたことだ。文帝が外廷で改革した制度は、科挙も含めて後世まで受け継がれたが、独孤皇后の一夫一婦主義は、彼女の死とともに消えた。のみならず、隋がわずか二代で亡ぶ遠因にもなった。
遣隋使から渡された“無礼な文言”に煬帝は怒り心頭
文帝と煬帝の時代、日本は聖徳太子(厩戸王)の時代である。
文帝と独孤皇后がまだ生きていた600年、当時「倭」と呼ばれていた日本から、第1回の遣隋使が隋の都にやってきた。文帝は、係の役人を通じて倭国の習俗をたずねさせた。倭の使者は答えた。
「倭王は、天を兄とし、太陽を弟としています。夜があける前に、結跏趺坐の姿勢ですわって政治を行います。日が昇ると、あとの仕事は弟にまかせる、と言ってひっこみます」
文帝は「無茶苦茶すぎる」とあきれ、倭国の使者に訓令を与えて制度を改めさせた、と正史『隋書』は伝える。
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