中国王朝・隋の時代、嫉妬に狂った皇后が色恋だらけの後宮でまさかの「一夫一婦制」を実施 罪のない者の死、皇帝の"奇行"…招いた波乱の数々
文帝の激高は少し収まり、しばらくその場にとどまったのち、夜中に宮中へ戻った。皇后は眠らずに待っており、文帝が重臣たちと帰還すると、涙を流して謝罪した。一同は酒宴をして盛り上がった。これで一件落着──とはならなかった。
独孤皇后は、高熲が父・独孤信の客分待遇の家来だったこともあり、当初は恭しく接していたが、高熲が自分のことを「たかが一婦人」と呼んだことを、深く恨んだ。
高熲の正妻が亡くなった。文帝は再婚をすすめたが、高熲は「私はもう年ですから」と断った。その後、高熲の側室が男子を産んだ。昔の妻妾制の時代には普通のことだが、独孤皇后は、ますます高熲を憎んだ。
そればかりではない。一夫一婦制の信奉者であった皇后は、諸王や朝臣が側室を妊娠させると、腹を立てて、文帝に「あんなやつは、やめさせなさい」と勧めるのが常だったのである。
時代を先取りすぎた“一夫一婦主義”はあえなく崩壊
自分が産んだ息子も例外ではなかった。
長男で皇太子の楊勇(?〜607年)は、頭は良かったが、女好きで、多くの側室を寵愛していた。楊勇の正妻である元氏が急死すると、独孤皇后は、わが子の愛妾である雲氏が殺害したのだと疑った。文帝を動かし、皇太子の後ろ盾であった高熲を失脚させ、皇太子を廃して幽閉する。代わって、次子の楊広(569年〜618年)が皇太子に立てられた。後の第二代・煬帝(ようだい)である。
楊広は、母親の一夫一婦主義を熟知していた。彼も本当は女好きだったが、側室を置かずに正妻だけを愛するというポーズをとり続けたのだ。そのおかげで、兄をおしのけて自分が皇太子になることができたのである。
602年、独孤皇后は49歳で亡くなった。
そののち文帝は、宣華夫人陳氏(577年〜605年)、容華夫人蔡氏という二人の美女を寵愛した。陳氏は、隋に滅ぼされた南朝の陳王朝の第四代皇帝の娘である。
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