漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も

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その日、武帝は、長安の都の郊外を流れる霸水の川で行われる禊ぎの祭りに出かけた。その帰りに、同母姉である平陽公主の邸に立ち寄った。平陽公主は、陳皇后とのあいだに子どもができぬ弟のため、顔だちよい良家の子女を10人余り用意していた。が、武帝のめがねにかなう子はいない。

宴会になり、コーラス・ガールの女の子たちが出てきた。武帝の目は、そのうちの1人に釘付けになる。その子が衛子夫だった。

武帝は「更衣」(着替え)のために立った。更衣はトイレに行くことの婉曲的表現である。その言葉どおり、皇族のトイレは、着替えをするための部屋が付属した立派なものだった。衛子夫は、着替えを手伝うためにつきしたがい、そこで寵愛を受けた。日本の平安時代の後宮の「更衣」と同様、中国でも、天子の着替えのお手伝いをするという名目で、女性が天子とふたりきりになることがあったのである。

ちなみに、はるか後世、武則天が皇太子時代の高宗と初めて関係をもったのも、トイレだったと伝えられる。

1年以上も忘れられた衛子夫、ついには皇后に昇格

座席にもどった武帝は上機嫌で、姉に黄金千斤(約260キログラム)を贈った。武帝は、衛子夫をもらって皇宮に連れ帰った。馬車に乗る衛子夫の背中を平陽公主はポンと叩き、こう言って送り出した。

「行ってきな。しっかり食って、がんばるんだよ。偉くなっても、私を忘れるんじゃないよ」

『史記』外戚世家はこのように伝えている。

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