漢の武帝に愛された皇后は「100人から選ばれた幼女」と「歌手から大出世したシンデレラガール」だった…不妊治療に90億円、本気すぎる妊活も

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陳皇后の行動は常軌を逸し始めた。衛子夫の弟である衛青を拉致して監禁したり、巫祝の呪術を使って衛子夫を呪い殺そうとしたのだ。呪殺未遂が発覚し、陳皇后は前130年に廃された。

陳氏は皇后から降格させられたが、武帝との夫婦関係は続いた。彼女はあきらめなかった。不妊治療のために使った金額はおよそ9000万銭にものぼった、と『史記』外戚世家にある。

当時はまだ「半両銭」の時代だった。半両銭の重さ(約7グラム)は現代日本の500円硬貨とほぼ同じである。仮に当時の1銭を現代日本の100円とすると、陳氏は不妊治療に90億円を使ったことになる。それでも子どもはできなかった。

陳氏の廃后のあと、皇后はしばらく空席だった。前128年、衛子夫が武帝の長男・劉拠(前128年〜前91年)を産んだ。その功績で彼女は「夫人」から皇后に繰り上がった。

その後も陳氏は生き続けた。母親である館陶長公主が死んでから、数年後に陳氏も死んだ。皇后経験者という高貴な身分だったにもかかわらず、生年も没年も伝わっていない。

コーラス・ガールが見初められ、トイレで皇帝と…

出自も性格も陳皇后と対照的だったのが、武帝の2番目の皇后となった衛子夫である。

話は、武帝がまだ18歳だった前139年にさかのぼる。

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