シニアのなかには、若者と関わるのが生きがいだと明言する人もいます。
例えば、教育機関で教える人もいれば、学生と一緒に楽器を演奏している人もいる。彼らは自分の知恵や経験を惜しみなく若い世代に伝えています。
若者に「教える」だけではありません。彼らは若者に「教わる」姿勢も持っています。自分だけの世界に閉じこもらず、むしろ若者たちが見ている広い世界に連れ出してもらうのです。
教わる楽しさに目覚めたら、しめたものです。
将棋教室に通えば、小学生にもこてんぱんにやられるかもしれませんが、それもまた新鮮。いきいきとした老後になるか、内へ閉じこもる老後になるか。大きな境目は「教わる」姿勢です。
そのためにも、日頃から新しい世界に目を向けることです。きれいなものに触れたら「ああ、きれいだな」と心を動かし、面白いことがあれば「あれ、面白かったよ」と誰かに伝えましょう。
わからないことがあれば「わからないから教えて」と、若者が相手でも頭を下げること。これができれば、若者とも会話が弾みますし、若者の価値観や考えかたにも触れられるでしょう。
何歳になっても、よく見る、よく聞く、よく学ぶ。老害を防ぐ特効薬があるとしたら、これだと思います。
教えをこうのに、年齢や地位は関係ありません。
肩書の外れた「ただの人」に戻る勇気を
ところが、見栄やプライドが邪魔をする人がいるのは、残念なことです。
「年下に頭をさげるなんて、いやだ」
「今更勉強するなんて、恥ずかしい、バカにされる」
なぜ?と思うのですが、こんなことを口にするシニアが本当にいるのです。こういう態度では、外の世界に出ていっても煙たがられるでしょうし、学べるものも学べません。
特に、定年を過ぎて職業や役職の肩書が外れたら、もう「ただの人」です。
社長だろうが医者だろうが、弁護士だろうが、現役時代の肩書など、老後の生きがいの足しにはなりません。
いいえ、本来はどんな人も始めから「ただの人」なのだと考えるべきなのでしょう。人は、誰かに肩書を与えられ、その肩書にみあった人間であろうとしているうちに、肩書が自分の本質だと錯覚してしまうのです。
そんな肩書が外れるということは、生まれたままの自分に戻るということ。仏教ではその姿を「如是(にょぜ)」といいます。
肩書に未練を残したまま生きるのか、新しい人生を選び学び続けるのか。閑古錐とは、勇気をもって後者を選んだ人でもあるのです。
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