しかし、老いは本当に「恐れる」べきものなのでしょうか?
確かに、単純な能力を比較するなら、シニアは若者にかなわないでしょう。最新のテクノロジーを使いこなし、新しい価値を創造するのは、いつの時代も若者の役割です。
それでも、シニアの役割がなくなるわけではないと、私は思います。若者の役割とシニアの役割は、別物だからです。
「閑古錐(かんこすい)」という禅語があります。
閑古錐とは、使い古されて、先がまるくなった錐のことです。新しい錐は先がするどく尖り、すばやく穴を開けられる反面、使う人を傷つける恐れもあります。それに比べると古錐は、穴を開けるのに時間は少々かかるかもしれませんが、けがをする心配は少ない。
2つを比べて、どちらが良い悪いと即断できる人はそういないでしょう。新しい錐にも古い錐にも役割がある、居場所がある。それでいいのです。
同じことが人間にもいえます。
確かに、年をとれば体力は落ちる。頭の回転は遅くなり、記憶力も落ちる。職場でも、新しい仕事を任されるのは若者で、自分は後方支援に回される。かつてのように働けない境遇を寂しく思う人もいるでしょう。
かといって、頼まれもしないのに若者にアドバイスをしたり、「自分はまだできる、今どきの若いものには負けない」などと自分の立場や地位に固執すると、それこそ老害呼ばわりされるのがおちです。
老いたものには、老いたものとしての価値があるのです。その価値を早いうちから見つけられたなら、老いは恐ろしいものではなくなる。そうは思いませんか。
「何もしない」のも年長者の役割
そもそも「閑」とは「心安らいだ」状態のこと。禅の世界でも、修行を積んで円熟味を増した僧侶は閑古錐と呼ばれ、尊敬の対象です。職場においても、閑古錐として自分が果たすべき役割を見つけられたなら、老害呼ばわりされる心配もないでしょう。
若者が自分から頼ってくるまでは、シニアは出しゃばらず、「何もしない」でいいと思います。若者が自分で考え、工夫し、失敗を繰り返しながら成長していくのを見守りましょう。
それに、若者には若者なりに大事にしている仕事のやりかたや価値観があるのです。それを理解しないまま「それは違う!」「こうやってみたら?」などと自分の意見を押し付けても、若者はまず耳を貸しません。
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