「自分が不要になる日」が恐ろしい
老害。自分が築き上げた立場や地位にしがみつき、若い人たちに譲ろうとしないシニアをそう呼びます。
最近、老害を非難する声のみならず、「老害になりたくない」という声も、大きくなっているように思います。
シニアと呼ぶにはまだ早い40代にも「知らず知らずのうちに、若い世代の活躍を妨げているのではないか」という恐れがある。こうした心情はどこからやってくるのでしょう。
生物学的に見れば「老い」は「死」に近づくことを意味しますが、恐ろしいのは死だけではありません。時代が求めるものとズレが生じ、自分が「不要なもの」になるかもしれないという不安が、老いをより恐ろしいものにしているのではないでしょうか。
例えば、テクノロジーの進展はいつの時代も大半のシニアを置き去りにしてきました。18世紀の産業革命のとき、機関車が走り始める以前と以後の仕事では、大きな隔たりがあったはず。いくら「昔の仕事はこうだった」とシニアが強弁しても、若者は「今と昔は違う」と一蹴したでしょう。
AIが日常に入り込んできている現代においても、同じことが起きているに違いありません。老害になりたくないと努力する人にも、自分が老害になるはずがないと油断している人にも、若さにあふれ今まさに老害を批判している人にも、平等に「老い」は迫っているのです。
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