もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう
「そもそも」論とは「そもそも」何を指しているのか
京大生は「そもそも」論が大好きだ。そう書いたが、いったい、京大生自体、「そもそも」どんな存在なのか。
NHKのエグゼクティブ・ディレクターの福原氏による、Xへの「少なくとも私がいたころはこんな話し方をする学生はいなかった」との投稿に、なぜ、「いなかった」と断言できるのか、と私は難癖をつけたことがある。
この批判めいた文句は、そのまま私に跳ね返る。
京大生は「そもそも」論が大好きである、となぜ断言できるのだろうか。さらに言えば、「そもそも」論とは「そもそも」何を指しているのか。学者、狭く考えても哲学や倫理学、あるいは経済学や社会学といったさまざまな学問は、「そもそも」を問う営みではないのか。
こう考えていくと、「京大生は『そもそも』論が大好き」という根拠は薄く見えるし、「そもそも」この文章そのものが成り立たないように思える。
しかし、それでも京大生らしさ「のようなもの」は、どこかにはあるのではないか。すでにおわかりのように、こうした議論というか、ぐるぐる回りが「そもそも」論であって、私が京大でしばしば体験してきたことだったのである。
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