もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう

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堂々巡りの会話は「苦痛」ではなく、むしろ「当たり前」だという(写真:玄武/PIXTA)
ともに京都大学の出身で、20年以上生活をともにしている社会学者・鈴木洋仁氏夫妻は、日々の暮らしも「京大話法」に毒されているそうです。
晩ご飯の献立を相談していたはずが、いつの間にか「あらぬ方向」へと話が延々と続いてしまう。そんな夫妻の会話の一端を、鈴木氏の著書『京大思考』から、一部を抜粋・編集して紹介します。

「そもそも」論とは「そもそも」何を指しているのか

京大生は「そもそも」論が大好きだ。そう書いたが、いったい、京大生自体、「そもそも」どんな存在なのか。

NHKのエグゼクティブ・ディレクターの福原氏による、Xへの「少なくとも私がいたころはこんな話し方をする学生はいなかった」との投稿に、なぜ、「いなかった」と断言できるのか、と私は難癖をつけたことがある。

この批判めいた文句は、そのまま私に跳ね返る。

京大生は「そもそも」論が大好きである、となぜ断言できるのだろうか。さらに言えば、「そもそも」論とは「そもそも」何を指しているのか。学者、狭く考えても哲学や倫理学、あるいは経済学や社会学といったさまざまな学問は、「そもそも」を問う営みではないのか。

こう考えていくと、「京大生は『そもそも』論が大好き」という根拠は薄く見えるし、「そもそも」この文章そのものが成り立たないように思える。

しかし、それでも京大生らしさ「のようなもの」は、どこかにはあるのではないか。すでにおわかりのように、こうした議論というか、ぐるぐる回りが「そもそも」論であって、私が京大でしばしば体験してきたことだったのである。

次ページ京大出身の妻との間で繰り広げられる「京大話法」
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