もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう
友人は、「『仕事ができる』って、どういう意味?」と返答してきた。いや、もっと強く、「その『仕事ができる/でけへん』って、誰が、どうやって決めるん?」というニュアンスで友人が反応した覚えがある。
これに対して私は気楽な会話もできないのか……と腹を立てたわけではない。「言われてみれば確かに……」と、納得し、あらためて疑問を抱いたのだから、私もまた、こうした会話に染まっていた。
染まっていたというよりも、染まるような素質を「そもそも」持っていたから、京大を志望したし、入った後も、同じような会話をためらわず続けていた。
「そもそも」論を90分、時間いっぱい考えたゼミ
「そもそも」論で言えば、私が大学のころに受講した間宮陽介先生(1948年〜)のゼミを思い出す。日本銀行によるゼロ金利政策をめぐって、「金利って何?」とか、「なんで貨幣には価値があるの?」といった、禅問答というか、「そもそも」論を90分、時間いっぱい考えていた。
もったいないことに、ゼミへの参加者は5人もいなかったし、そのうち1人は博士課程の方だったので、勝手な発言をしても許された。少人数なので、許す以外の選択肢は、間宮先生にはなかったのだろう。
間宮先生は、『丸山眞男 日本近代における公と私』(筑摩書房、1999年)や『市場社会の思想史 「自由」をどう解釈するか』(中公新書、1999年)を出されたばかりで、朝日新聞の論壇時評の執筆者を担当されているころだった。
日本のリベラリズムだけではなく、知識人の代表ともいえる丸山眞男(1914〜1996年)を読み、当時はまだまだ確固たる権威だった朝日新聞で健筆を振るう。間宮先生はそんな、いわば「偉い」先生だったものの、学生に対してはものすごく親切だった。いや、私が厚かましすぎて、間宮先生の権威を感じ取れなかったのかもしれない。
それでも、時間を気にせずに、利子をはじめとして、中央銀行の役割、政府の政策について、根本から考える経験は、いかにも京大だった気がする。
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