もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう

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まったくの私事でお恥ずかしいのだが、私は、京大の後輩と結婚している。在学中に知り合ったので、20年以上、生活を共にしている。日々の暮らしも、「京大話法」に毒されている。

たとえば、と書こうとした今、妻とした会話を再現しよう。

夫(私) きょうの夕ご飯は、カレーにしようと思うんだけど、甘口と、中辛とどっちがいい?
妻 Aちゃん(子どもの名前)次第じゃない?
私 Aちゃんは、たぶん甘口。
妻 じゃあ、選択肢はないよね……。
私 そもそも、夕ご飯はカレーでいいのかな?
妻 え……。

一時が万事、とまでは言わないものの、この部分を書こうとしていて、私がいつまでも、この「そもそも」論に拘泥しているところに気がついた。

いや、気がついた、と書いている時点で、ボケている。このボケぶりが、「そもそも」論へのこだわりに通じている。

もともとの話題からどんどん遠ざかる「京大話法」

たとえば、次の会話を「京大話法」に変換しよう。

妻 今日の夕飯のお味噌汁、具は何がいい?
夫 何でもいいよ。豆腐とかあればそれを入れればいいんじゃない?
妻 冷蔵庫にはネギがあるから豆腐とネギでいい?
夫 具は2種類だけ?
妻 ほかに何が欲しいの?
夫 油揚げとかどうだろう。
妻 油揚げはないけど買ってこようか。
夫 俺買ってくるよ。

このやりとりを「京大話法」にすると、次のようになろうか。

妻 今日の夕飯のお味噌汁、具は何がいい?
夫 お味噌汁って、出汁は取るの?
妻 そりゃ、出汁を取らないと、お味噌汁にはならないんじゃない?
夫 いや。鶏肉を具にすれば、出汁なくてもいいかなって。
妻 鶏肉で出汁を取るのは難しいんじゃない。
夫 取れるときもあるでしょ。手羽先とか入れれば。
妻 じゃあ、手羽先を買ってきてもらえる?
夫 手羽先を買うならスーパーじゃないほうがいいよね。
妻 任せるけど……。

と、ここまでで、もともとの会話にあった「油揚げを買ってくる」ところから、遠く隔たっている。隔たったという意識は、もちろん当事者にはない。

夫、つまり私だったら、この後の会話は、手羽先を買うなら精肉店であり、精肉店に行くなら、お味噌汁の具以外の献立も考え直そうとする。

先の会話のポイントは、話を大きく逸らしている夫だけではない。ふたりとも、「お味噌汁」の定義、「そもそも」論を無意識に持ち込んでいる妻にもある。

「出汁を取らないと、(そもそも)お味噌汁にはならない」。こう、妻が返したために、その後のやりとりは、具材に何を入れるのかではなく、出汁を取るにはどうすればよいのか、という、ぐるぐる回りへと展開していく。

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