もはや理解不能「京大話法」夫婦の呆れた日常会話 どこまでも「そもそも」を突き詰めてしまう
まったくの私事でお恥ずかしいのだが、私は、京大の後輩と結婚している。在学中に知り合ったので、20年以上、生活を共にしている。日々の暮らしも、「京大話法」に毒されている。
たとえば、と書こうとした今、妻とした会話を再現しよう。
一時が万事、とまでは言わないものの、この部分を書こうとしていて、私がいつまでも、この「そもそも」論に拘泥しているところに気がついた。
いや、気がついた、と書いている時点で、ボケている。このボケぶりが、「そもそも」論へのこだわりに通じている。
もともとの話題からどんどん遠ざかる「京大話法」
たとえば、次の会話を「京大話法」に変換しよう。
このやりとりを「京大話法」にすると、次のようになろうか。
と、ここまでで、もともとの会話にあった「油揚げを買ってくる」ところから、遠く隔たっている。隔たったという意識は、もちろん当事者にはない。
夫、つまり私だったら、この後の会話は、手羽先を買うなら精肉店であり、精肉店に行くなら、お味噌汁の具以外の献立も考え直そうとする。
先の会話のポイントは、話を大きく逸らしている夫だけではない。ふたりとも、「お味噌汁」の定義、「そもそも」論を無意識に持ち込んでいる妻にもある。
「出汁を取らないと、(そもそも)お味噌汁にはならない」。こう、妻が返したために、その後のやりとりは、具材に何を入れるのかではなく、出汁を取るにはどうすればよいのか、という、ぐるぐる回りへと展開していく。
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