「清少納言は得意顔をして、偉そうにしている人。利口ぶってやたらと漢字を書き散らしているけれど、よく見たら間違いも多くて、まだまだ足りないところだらけ」
ずいぶんな言われようだが、2人に面識があったという記録はない。宮仕えをした時期もズレているため、生涯を通じて顔を合わせることはなかった可能性も高い。
だとすれば、なぜ紫式部はあれほど清少納言を批判したのか。一説によると、紫式部の亡き夫・藤原宣孝が参拝のときにまとった派手な服装を、清少納言が『枕草子』で「これはあはれなる事にはあらねど」(趣があることではないけれど)と、悪く言ったからではないかとも言われている。ただ、激怒するほどの悪口ではないだけに、真相はさだかではない。
「この先ろくなことがない」と不吉な予言
紫式部による清少納言の批判は、まだまだ続く。
「かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは」とし、「人より優れていようと思いたがる人は、必ず失望し、その将来はただ嫌なことばかりになり」と、自信ありげな清少納言の限界を示唆。さらにこう書いている。
「艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし」
意味としては次のようなものになり、清少納言の『枕草子』を意識した批判とも、とれそうだ。
「やたらと風流を気取ってしまう人は、なんということのないことでも、しみじみと感動してみせたりして、興あることを見逃すまいとしてると、自然と軽薄な態度にもなるのでしょう」
それでもまだ気が済まない紫式部は「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」とまで言っている。現代語訳は次のようになる。
「こんな人の行く末にいいことなんてあるだろうか」
こんな紫式部の不吉な予言を受けてのことだろうか。「清少納言が落ちぶれたらしい」という伝説は、彼女の死後にまことしやかに噂されることになる。
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