お互いの価値観を認めあいつつ、共に生きていく社会。たしかに、理想的な社会だ。
だが、両者の前提に置かれているのは、「善意と良識に満ちた人間像」だ。
現実社会では、多様性と共生はイコールとは限らない。私は同調圧力が嫌いだ。だが、もしこの圧力がまったくなく、多様性が完全に認められるとすれば、各人が好き勝手に権利主張を繰り返し、対立し、社会はバラバラに分裂してしまうかもしれない。
そもそも<共に生きる>とはどんな状態をさすのだろう。質問に答えられずに悔しかった私は、何冊かの本を手にしてみた。すると、「共生」には、いくつかのバリエーションがあることがわかった。
ルソーが「社会契約論」に記した答え
寄生も共生の一形態と聞いて少し驚いたが、要は、「利益」がどのように配分されるかによって共生の意味はまったく変わってしまう、というわけだ。
多様性を認めあう社会。みなが共に生きようとする社会。いずれもキレイだが、善意と良識に満ちた人間像だけでなく、「利益の配分」の問題を語れていないからリアリティがないのだろう……私はなんとなく合点がいった気がした。
「さまざまの利害の中にある共通のものこそ、社会の絆を形づくるのである。そして、すべての利益がそこでは一致するような、何らかの点がないとすれば、どんな社会も、おそらく存在できないだろう」
『社会契約論』にあるこの一節を思いだした。「私の利益」だけでなく、「みんなに共通の利益」を考え、それを実現するためにみなが汗をかく。だからこそ、1人ひとりが多様でありながらも、支えあい、共に生きる社会が生まれる。なるほど。さすがルソーだ。
一方だけが得をし、他方が損をするのは、寄生だ。この視点を、現実の財政問題に置き換えてみよう。
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