福祉従事者はサービスを与えるだけではダメだ。利用者さんの心に寄り添い、伴走し、共に生きることを求められる。人の嫌がる仕事でも、仮に辛い仕打ちを受けても、笑顔での受け答えが求められる。こんな仕事はそう多くないのではないか。
もし、彼女ら/彼らが生きるために、安価な給料に甘んじて、利用者さんを支えなければならないとするならば、これもまた、<寄生という名の共生>に限りなく近づいてしまう。
高額の所得や収入を手にする人たち。高齢者や障がい者への献身を求められる福祉従事者たち。異なる立場にありながら、批判者からは厳しい目で見られがちな両者だが、じつは、いずれも<寄生という名の共生>の「被害者」なのかもしれない。
「みんなちがって、みんないい」の先は分断社会?
第4回(『娘が流すSnow Manに私が「日本の未来」感じた訳』)でも論じたように、いまの日本は、生活保護利用者をはじめとする<弱い立場に置かれた人たち>への共感が成立しない社会になっている。それは、ある人たちが一方的な負担者となり、他方が一方的な受益者、すなわち「寄生者」となることへの違和感の表明ではないか。
そうだとすれば、「みんなちがって、みんないい」が行き着く先は、自分とは異なる価値を持つ人たち=他人への無関心が蔓延し、困っている人たちを置き去りにしてしまうような「分断社会」なのかもしれない。
当たり前のことを言おう。弱い立場に置かれた人たち(=「弱者」)は、この社会を共に生きる仲間なのであって、不幸な人たちではあっても社会の寄生者ではない。そんな存在にしてはならない。
そうだ。私たちが「多様性を認めあい、共に生きようとする社会」をめざすのなら、負担者にも応分の利益があり、したがって「弱者」も堂々と生きられる、そんな<相利共生社会>の条件を考えなければならないのだ。
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