「やりたいこと」より「役立つ資格」を選ぶ人の盲点 「社会が設定した欲望」は誰がつくっているのか
舟津:そうなんですよ。こういう仕組みは世の中にあふれていて、就活もほとんどは用意されたレールに乗っているのに、自分で選んだかのように見せかけられています。
だからこそというか、卒論であれば、「あなたのやりたいことをやりなさい」と無理矢理にでも考えさせることができるはずなんです。そういう過程を経て、自分の中にやりたいことは見つかっていくものです。
もちろん、一部の学生には「やりたいことがない」という人もいます。でも、ないことを認めつつも、何らかの好き嫌いはあるはずで。卒論にならなくても、例えばこういうドラマが好きだとか、こういうマンガが好きだとか、そういうものがあれば十分だと思うので。言葉にすると陳腐ではありますが「自己発見」のために、ときには強制する必要がある、という逆説は成立するのかなと思います。
なんでも「自分の責任」と考えると疲れる
三宅:指導教官が「好きにやりなさい」と責任を持って強制するなら、卒論は学生にとって自分のやりたいことを探す、いい機会になりそうですね。
私の著書の中で引用した『疲労社会』という本の言葉を借りると、20世紀型の強制と言えるかもしれません。つまり20世紀型は、上司が部下に「こうしろ」とか「何時間残業しろ」という強制だった。一方で、舟津さんが先ほどおっしゃったような、自分で選んだかのように見せかけるのが、21世紀型の強制の型。20世紀型であれば、ある意味責任は上司にありますが、21世紀型だと「働かない自分」「競争に勝たない自分」に責任があるので、もっともっとと自分を煽って疲れてしまい、実はすごく鬱が近いという。
『疲労社会』は働いている人の話をしていますが、私は学生たちも同様だと思います。昔なら反抗的な不良が多かったのに対し、今では「いい子」が多くなっているのは、そう誘導する抑圧が強化されているから。本当はその誘導を真に受けすぎると学生たちもしんどいし、疲れてしまうのですが。
ときには親や先生、会社の言うこと疑って、サボるときはサボるとか、そういう使い分けができたらいいんですけど、かなり器用じゃないと難しいな、とはすごく思いますね。