全日制大学の標準的なカリキュラムや、社会運動の週当たりの分担など、一般に正常とされているタスク量は多すぎて、大半の人には継続不可能だという。
しかも、「怠惰」だと見なされている行為は、実際には、自己防衛本能の強い表れなのだという。
やる気が出ない、目標が定まらない、といった「怠惰」な状態になるのは、心や身体が安静や静謐(せいひつ)を求めて悲鳴を上げているからだ。疲労がたまっているときには、心身の訴えを聞き、その声を尊重して、ようやく回復へと向かえる。
心理療法士や、企業でのコーチングの専門家によると、仕事や私生活で「ここまで」という一線を引く方法は存在する。「怠惰」でいる権利を主張して、生活の中に、遊びやリラックス、回復のための「余地」を持つことは可能なのだ。
さらに、「やることリスト」の完了チェックの数で自己評価をしないようになれば、不安もなくなり心が穏やかになれるという。
「怠惰」なんて本当は存在しない
私たちは怠惰であることを恐れるよう教えられてきたけれど、そんな「怠惰」はそもそも存在しない。道徳的に退廃した怠け心が内在するわけでもないし、その邪悪な力のせいで人が理由もなしに非生産的になるわけでもない。
限界を訴えたり休みを求めたりするのは、何も悪くない。意欲の低下や疲労感は自尊心を削る脅威ではない。
むしろ、「怠惰」だと揉み消されるような感情こそが、人間としてとても重要な感覚であり、長期的に見れば、私たちが豊かに生きるために必須なのだ。
人がエネルギー切れやモチベーション不足になるのは、ちゃんと理由がある。人が疲れたり燃え尽きたりしているのは、本人の内面にのさばる、恥ずべき「怠惰」に負けているからではない。
むしろ、当たり前の要求をしただけでも非難されるような、仕事中毒な価値観が蔓延しているせいで、生きづらくなっているのが問題だ。
身体の上げる非常ベルの音を無視してまで、自分を追い詰める必要はない。休むことを拒まなくていい。怠惰を恐れる必要はない。
そもそも「怠惰」なんて存在しないのだから。
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