「底辺高校から同志社」バカにされ続けた彼の意地 「大学に進学すること自体が夢物語だった」

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櫛山さんは岡山県真庭郡久世町(現:真庭市)に、小売業界で働く父親と専業主婦の母親のもとに生まれました。

「父親が転勤族だったので、4年に1回ほど転勤をしており、小学校で広島・大阪、中学校は1年間だけ名古屋ですごしました」

幼少期から転校を繰り返し、やっと大阪にとどまったのが中学校2年生のときでした。目まぐるしく環境が変わる中で幼少期を送った彼は、自分自身を劣等生であったと振り返ります。

どこに行ってもバカにされた

「小学校時代は3段階評価でほぼ最低評価のCしかありませんでした。中学校では社会と国語を除けば、あとはオール1。アルファベットも何もわからなくて、英語の授業で先生に番号順・席順に指名されて答えるときに、自分だけ当てられずに飛ばされていたくらいです。

中学生になってから個人塾にも通い始めたのですが、あまりにもできなくて『お前は生きている価値がない』と先生に言われて物差しで叩かれていました。どの環境に行ってもバカにされる人間でした」

「勉強も運動も何もできず、高校に行くことすら厳しいと周囲に言われ、将来の夢もやりたいことも何もありませんでした」と当時を振り返る櫛山さん。

そんな彼の意識を大きく変えるきっかけは、中学3年生のときに個人塾で代々木ゼミナールの案内を見たことだったそうです。

「なんとなくその資料を見ていて、私立大学だったら、3教科を必死に頑張れば大学に入れると気づいたのです。そのとき僕は、勉強なら自分次第で逆転ができると思ったんですね。何をしてもあまりにも周囲にバカにされるから、見返してやりたいと思い、勉強を始めたんです」

中学の成績は250人中220番くらい。数学では0点を頻繁にとっていた櫛山さんでしたが、社会の成績だけはよかったことが自信になっていたそうです。

とはいえ、活路を見いだしたのが高校に上がる直前だったため、高校受験には間に合わず、当時大阪で偏差値35だった私立高校に進学します。

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