家康は「大局観を持て」と秀忠に懸命に伝えていることがわかる。秀忠もそれに応えようと、家康の意向に沿いながらも、将軍となるのにふさわしい判断力を磨いていくことになる。
それを象徴する場面が「大坂夏の陣」で勝利したあとの戦後処理である。
「大坂夏の陣」で徳川の勝利が決まると、大野治長などの豊臣家の家臣たちから、豊臣秀頼の助命を乞われた家康。江戸時代初期に家康の動静を記録した『駿府記』によると、こう伝えたとされている。
「放免しよう、秀忠に聞いてみよう」
だが、秀忠は助命を拒否。非情にも秀頼と母の淀殿に切腹を命じている。この決断には、周囲も驚いたことだろう。だが、秀忠の立場になれば、当然の判断でもあった。
そもそも、この戦いは政権譲渡の仕上げとして、家康が豊臣家滅亡を目論んだものであることは、火を見るより明らかなこと。秀忠は自分に判断を委ねられた意味をきちんと理解して、秀頼に切腹を命じたのだろう。
もちろん、家康としても息子に汚れ役を押し付けたわけではないだろう。秀忠に非情な判断を下させることで、大名たちにこれから政権を担うのは誰なのかを、明確なメッセージとして伝えている。自分が亡きあとの、秀忠と諸大名との関係に思いを馳せたのだ。
そして秀忠もまた、そんな先代のお膳立てに応えながら、自らを脅かしかねない存在の芽を完全に摘むことをやってのけた。
秀忠を駆り立てた「関ヶ原のトラウマ」
もともと秀忠はこの「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」に並々ならぬ意欲を見せていた。父の陰から一歩出ようとする秀忠の姿がそこにある。江戸城を出たとき、家康の事実上の側近である本多正純に書状でこう伝えた。
「大坂城攻めは、私が着くまでお待ちなさるように申し上げてください」
もう関ヶ原のような遅参だけは避けたい、という思いがありありと伝わってくる。秀忠は自分の長女、千姫を秀頼のもとへ嫁入りさせており、彼女も大坂城にいた。
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