それにもかかわらず、戦意のほうが上回ったようだ。そして真田との戦いに敗れて、大坂冬の陣ではいったん和睦に応じることになると、こう徹底抗戦を主張している(『駿府記』)。
「この程度の城郭がどうして攻め落とせないのでしょうか」
家康は「小敵を見て侮るな」と息子をたしなめながらも、胸中では秀忠にたくましさを覚えたのではないか。秀忠はそれでもおさまらずに、「大御所(家康のこと)は文武の道で天下無双の大将であるのに、ためらうのはおかしい」(『駿府記』)とまで言っている。
秀忠が家康の意をくみながらも、自分の最終判断で、秀頼親子を死に追いやったのも、やや危うさを感じるほどの熱意の延長だったのだろう。
自分だってやれる――。そんな思いは家康の死後、加速していくことになる。
大名の改易や転封が相次いだ
元和2(1616)年4月17日、家康は75年の生涯に幕を閉じる。約3カ月前の元旦に、秀忠は江戸城黒書院で、次男で11歳の家光を自分の左側に座らせた。跡継ぎを家光とするというメッセージである。
秀忠ばかりか、その次の代まで徳川家が承継する道筋を立てられて、家康としても安心して、あの世に旅立てたことだろう。
いよいよ秀忠が自由に采配を振るうことになった。家光に将軍を譲る元和9(1623)年までの7年間が「秀忠の時代」だ。そこに秀忠の本来の姿が凝縮されている。
これまでは「何事も大御所様の仰せのままに」といっていた秀忠がやったこととは、何か。目立って多かったのが、大名の改易や転封である。つまり、大名の領地を没収したり、領地をほかに移したり、ということを何度も行ったのである。
家康の死からわずか3カ月後に、秀忠は自身の弟、松平忠輝に伊勢の朝熊へ移るように命じた。また甥の松平忠直も豊後の萩原へと流している。処分は外様大名にも及び、秀忠は安芸広島藩主の福島正則も「無断で広島城を築城した」という理由で改易してしまう。
だが、豊臣系大名の重鎮である正則まで改易してしまえば、当然のことながら波紋も大きい。このままでは大名間に亀裂が入りかねない。そう考えて「正則の改易はやりすぎではないか」と秀忠を諫めた人物がいた。本多正信の子、正純である。
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