ブラック組織からの逃げ方まで指南している易経 「君子豹変」「虎視眈々」日常に潜む古典の言葉
事業家としては他に、愛知セメント(現・太平洋セメント)を設立し、北海道炭礦鉄道を軌道に乗せ、東京市街鉄道(現・東京都電車)を経営した。
その高島があらゆる人生の局面に用いたのが易であり、その占いが驚異の的中率を誇ったことから「易聖」と呼ばれた。彼のもう一つの顔は易占家であった。
朱子に通じる「易」の理解と運用
易占に関しては、安政の大地震(1855)を予知した、西郷隆盛(1828~1877)や伊藤博文(1841~1909)の死期を当てた、日清戦争(1894~1895)や日露戦争(1904~1905)の戦局を見通したなど、伝説じみたものが多い。
ただ、ここで問題にしたいのは占いそのものではなく、高島が易をどのように考えていたのかということである。彼の主著である『高島易断』によれば、易は占いを通じて神明(神)と心を重ねる行為であり、それによって誠になりきることで、私欲にもとづく偏見や誤解を取り去り、物事を見通すのだという。
誠とは、太陽が一日も欠けることなく昇っては沈み、万物をあまねく照らして育むように、家庭や職場における立場と役割に日々丁寧に取り組み、社会をより良くしようとする心をいう。これはもともと儒教の根本経典である「四書」の1つ、『中庸』の言葉であり、高島は幼少期より四書に親しみ、また『易経』を編纂したのは儒教の開祖である孔子(前552~479)であると信じて祀っていたから、おのずからこうした考え方に至った。
つまり高島は、実業家として求められる社会的な立場と役割になりきり、個人的な私益にかかわらず、常に公益に徹する心を維持することで、その事業と人生を成功させられると信じ、その心を維持するために易を用いたのであって、恋愛成就や願望成就を求め、視野の狭い考えやわがままを押し通すために、半ば祈るような占いをしていたのではない。
事実高島は、投獄されたり、殺されかけたりした経験があった他、百発百中の占いを行うわりに、何度も危機的な状況や不運に見舞われている。
しかし、そこで高島は狼狽して易に奇跡的な助けを求めるのではなく、その状況のもつ意味と、それに対する心構えを問いかけた。そして、あらゆる状況を生成発展の資本にすることで、あらゆる事業を最終的に成功へと導き、安楽な晩年を手に入れた。こうして高島は易によって物事を生成発展の視点からとらえて柔軟に変化し、変化の波に乗ったのである。
この姿勢は、易の占いと思想の両面を整理した大学者、朱熹(朱子:1130~1200)の考えに非常に近く、高島は易を正確に理解し、運用していたことが分かる。
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