ブラック組織からの逃げ方まで指南している易経 「君子豹変」「虎視眈々」日常に潜む古典の言葉
したがって、こうした不安や懸念とは別に、どのような展開であれ、世界はこれからも続き、我々は生きなければならないであろう。そして、それなりに何とかしているのが人間である。悲惨な未来を過剰に不安がるのは、『ノストラダムスの大予言』におびえた教訓を活かしていない。
どうせ生きなければならないなら、少しでも良い社会や人生を生きたいものだ。そう考えるなら、『易経』を読んで中国思想の考えに触れてみることをおすすめしたい。
易とは「かわる・かえる」という意味
『易経』は、古代中国で成立した占いの書物であり、世界の変動法則を理論化した思想書である。易とは「かわる・かえる」という意味で、貿易や改易といった言葉は、いずれもこの意味で用いられている。つまり、この書物は世界が一定することはなく、たえず変化するものとする。世界が一定しないのだから、完全な終わりというものも存在しない。
一方で、世界はやみくもに変化しているのではなく、そこには変化を貫く法則が存在し、その法則にもとづいて、非常に長い時間をかけて生成発展していくとする。
この考え方が面白いのは、たとえば世界を日本とすると、日本という文明はずっと続いているが、その間には大和朝廷、律令国家、王朝国家、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府、明治政府など、さまざまな政体があったが、たとえある時代の政体が崩壊したとしても、日本という文明は連続しつつ発展しているように、さまざまな国家の興亡があったとしても、世界そのものはそれによって生成発展していると考えることである。
これは細胞が生まれたり死んだりすることで、1つの身体が維持されているような考え方であり、ビジネスの世界で言えば、たとえ大恐慌があって企業が連鎖倒産したとしても、日経平均が0円になることはなく、新しい企業が勃興して以前よりも経済成長するということである。
とはいえ、世界は生成発展しているから、国家が滅んでもかまわない、経済は生成発展しているから、自社が倒産してもかまわない、国家は生成発展しているから、自分の家が滅んでも気にならない、家は生成発展しているから、自分は不遇でもかまわないという人は、あまりいないだろう。そして『易経』もまた、そのような自己犠牲は求めていない。
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