ブラック組織からの逃げ方まで指南している易経 「君子豹変」「虎視眈々」日常に潜む古典の言葉
身の回りを見渡せば、神社の手水舎や、額に掲げられている「洗心」という言葉は、「易によって心から私欲を洗い流し、無意識下に潜り込む」という意味であり、高島に言わせれば、誠にアクセスする作業ということになる。
また、日常生活でよく耳にする言葉も『易経』を出典としており、「講習」は「友と議論を交わしてすぐれたところを真似する」、「観光」は「国のすぐれた点を仰ぎ見る」、「同人」は「志を同じくする仲間と官職を超えて交わり、理想の社会実現を目指す」、「虎視眈々」は「虎が獲物を狙うように、よそ眼をくれず徳を養う」という意味で、そのように生きれば、未来が開けていくというヒントが、日常語の中に隠れている。
一方で、『易経』を悪用したものとしては、「豹変」がある。これはもともと「君子豹変」と言い、「すぐれた人は、社会通念や成功体験にとらわれず、豹の毛がつややかに生え変わるように、一気に間違いを直すものだ」という意味であったが、とある代議士が変節した際にこれを用いたことから、いきなり前言を撤回して居直る様子を指す言葉になってしまった。だが、『易経』は続けて「だが、つまらない人間は、私益を得るために顔つきだけあらためる」と書いてあるから、こうした人間が出ることもお見通しなのである。
案外使える「中国思想」の考え方
このように、意外にも日本社会には『易経』の言葉があちこちにあり、その言葉をヒントにして、生き方や進み方を変えることができるように、工夫がこらされている。
『易経』のみならず、身の回りの何気ない言葉に、案外に使える中国思想の考え方が眠っている。「東洋思想の叡智」とまで大上段に構えるつもりはないが、もしもこれを読んで中国思想を人生やビジネスの武器として使い、ピンチをチャンスに変えられるかもと、少しでも明るい気持ちに変わった読者がいれば、筆者としてはそれだけでとても嬉しい。
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