「豊臣秀吉」朝鮮出兵で配下に裏切られた裸の王様 天下人の大きすぎる野望に誰も付き従えなかった

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NHK大河ドラマ『どうする家康』 中村七之助 石田三成
秀吉の懐刀である三成の決断とは(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)
NHK大河ドラマ『どうする家康』第37回「さらば三河家臣団」では秀吉によって、領地での安寧を願う北条は滅ぼされ、家康は家臣団とともに関東に転封されました。第38回「唐入り」では、天下統一を果たした秀吉が、さらに大陸へと兵を差し向けることに。『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者・眞邊明人氏が解説します。

秀吉が唐入り(明の征服)の構想を抱いたとされる資料は、1585年以降に現れました。関白就任後の書状に「日本国ことは申すにおよばず唐国まで仰せ付けられ候」と書き残されています。この秀吉の構想は、信長の影響であると言われていますが、それを示すものはなにも残されていません。

ただ、信長はポルトガルをはじめとする西欧の侵略国家との接触が多く、世界の強国は自国を制圧すると、そのエネルギーを使う場を国外に求めて、領土を広げるという常識を理解していました。したがって、自然と西欧の侵略思考を身に付けていたとしても不思議ではないでしょう。

1586年には、イエズス会のガスパール・コエリョに「秀長に日本を譲り、自分は唐国を治める」といった趣旨の発言をしています。翌年になると、唐入りに関する秀吉の発言はさらに増えました。このころ秀吉は九州征伐を行っていますから、天下統一を前にして、すでに唐入りを決定していたことが窺えます。

「唐入り」は半狂乱の秀吉によるもの?

秀吉の唐入りについては、彼が晩年となり思考が衰え、そこに愛息の鶴松の死が重なり、なかば狂乱の状態で行われたという説があります。しかし秀吉の発言を見るかぎり、そのような突発的な発想ではなく、唐入りは念入りに計画されていたと見たほうがいいでしょう。

では、なぜ秀吉は、このようなことを考えたのでしょうか。

それを証明するものはありませんが、すでに信長の構想にあったような気がします。もちろん当時の状況から、信長がどこまで本気だったかはわかりませんが、信長の後継を自認する秀吉が、その実現を目指すことは自然な流れであったのかもしれません。

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