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ハンセン病問題の啓発に沢知恵が人生を懸ける訳 コンサートで稼ぎながら全国の療養所をめぐる

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ひと烈風録【下編】

シンガーソングライターの沢知恵氏
大島青松園の入所者、東條高さんと一緒に歌の練習。東條さんは赤子の頃の沢知恵を知る「大島の父」(撮影:大月えり奈)

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『週刊東洋経済』5月25日号の「ひと烈風録」は沢知恵。東京芸術大学時代にメジャーデビューを果たした大型新人だったにもかかわらず、商業至上主義から離脱した。人と社会を正直に歌う歌手、そして音楽文化研究者でもある。
※ひと烈風録【中編】はこちら
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沢知恵がハンセン病との関わりを持ったのは生後6カ月。71年、父・正彦が沢を連れて瀬戸内海の大島青松園を訪ねたのだ。

当時ハンセン病はすでに薬で治る病気になっていたが、国の強制隔離政策は続いており、社会には差別と偏見が根強く残っていた。だが父は、正確な知識とキリスト教の友愛の精神で入所者たちと向き合う。周囲の反対を振り切って娘と園に入った。

断種・堕胎まで強いられた経験を持つ入所者たちは、赤子の沢を遠目に眺めていた。すると父は、彼らに娘と触れ合うよう促し、抱っこをさせる。

沢に、そのときの記憶は残っていない。だが、この出来事が沢の人生に大きな影響を与えた。

「故郷」となった大島

最愛の父が大切にしていた療養所の人たち。自分の目で、つながりを確認したかった。らい予防法が廃止された96年、沢は約20年ぶりに大島を再訪。桟橋に着いた途端、入所者たちが集まってきた。

「知恵ちゃーん!」「お帰り!」

年月が経っても覚えていてくれた。大島は沢の「故郷」になった。

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