70年以上ひたすら石を集めた男の凄まじい人生 禁固刑に処されても、石があるからストレスなし
しかし60歳のとき、大病に冒されてしまう。もう死は免れぬと観念し、養子の嘉蔵に遺言状をしたためたほどだった。
当人の性格なのか、遺言状には遺体の処置から死に装束、葬式の方法などが事細かに書かれている。そのうえで、私は生涯、立場をわきまえずに石に心魂をなげうった結果、全国に名を知られ、身分の高い人も尋ねてくれるようになったと述べ、それは「石の徳ならずして何ぞや、死後心の残るは石也」(斎藤忠著『人物叢書 木内石亭』吉川弘文館、1962年所収)と記している。
ただ、養子の嘉蔵はまったく石に興味がなかったようで、遺言状には「お前が石集めが嫌いなら勧めても仕方ないし、それを願っても益はない。でも食べ物の好き嫌いは多くはわがままである。できれば我意を離れて、家のため、また親孝行と思い、考えてみてほしい」と自分の石集めを養子に継続させたいと願っている。
しかし、幸いにも石亭は健康を回復し、それから25年を生きたのだった。
木内石亭が名所旧跡と並んでガイドブックで紹介される
晩年は、自然石より人工石に興味をもった。具体的には石器や矢じり、石棒、勾玉など、縄文時代から古墳時代に作成された石製品である。当時は神代石と呼ばれ、神がつくったものと考えられていた。
しかし石亭はそれを明確に否定し、徹底的に調査したうえで、『曲玉問答』、『鏃石伝記』などを著した。鏃石とは、石のやじりのことである。今読めば、稚拙な内容も含まれるが、頷けるところも少なくない。これらは刊行物ではなく直筆本だが、多くの人々に写され、多数の写本がつくられた。まさに考古学の先駆的研究といってよいだろう。
『東海道名所図会』全6巻は、寛政9年(1797)に秋里籬島が刊行した東海道の名所・旧跡や特産物を詳しく紹介した絵入りのガイドブックである。当時、ベストセラーとなったが、その巻二の一項目に「山田石亭」とある。そう、木内石亭が名所旧跡と並んで紹介されているのだ。石亭74歳のときのことである。
人間を名所として紹介するのは極めて珍しく、石亭にとってはまことに名誉なことだった。
紹介文には、石亭の略歴や業績が記され、さらに屋敷の庭に梅や松が植えられ、書院からは琵琶湖が一望できること、多くの好事家が訪れること。書斎では石以外の話を禁止したことなどが書かれ、さらに月珠石、羅漢石、石桂芝、琉球珊瑚、鉄樹など、石亭のコレクションがイラスト入りで紹介されている。
文化5年(1808)3月11日、木内石亭は85歳の生涯を閉じた。亡くなるまで石の蒐集や研究をやめることはなかった。石亭は自ら「石よりほかに楽しみなし」と言ったが、好きなことだけに没頭しつづけて死ねる人生、こんな幸せな人はそうそういないだろう。うらやましいかぎりである。
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