徳川家康、信長と和睦後「松平元康」名捨てた深い訳 泥臭い下工作を行って朝廷にもアプローチ

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「信長にも所望しているがいまだに贈ってこないのに、元康のすばやい対応はまことに神妙であるといっている」

信長は即断即決、迅速な行動で知られているが、気遣いの点においては、家康が上回っていたようだ。そうして各方面で目配りしながら、家康は次なるステップのための行動も着々と進めている。

それが「徳川家康」への改名である。

「元康」の「元」の字を捨てたかった

家康は、親からつけられた幼名が「竹千代」 で、それから何度か改名を経て「家康」へとたどり着く。最初の改名のきっかけは、天文24(1555)年に14歳で元服したことにある。今川義元が烏帽子親となり、義元の一字「元」が与えられることになった。竹千代から名を「元信」とし、その後「元康」に改名している。

しかし、永禄4(1561)年4月から、家康は東三河に進出。今川氏との対立は決定的なものとなった。その一方で信長とは和睦し、さらにその関係を強化しようと家康は考えた。信長との同盟強化にあたって、永禄6(1563)年3月、家康の嫡男である竹千代と、信長の娘である五徳とが婚約の儀を交わすことになる。

息子の幼名が家康と同じなのでややこしいが、家康の父の広忠も「竹千代」であり、家康以前から松平氏で用いられていた幼名である。ちなみにその後、徳川家光、徳川家綱、徳川家治らにも「竹千代」の幼名が与えられている。

この婚約によって、これまでの領土不可侵、つまり「お互いの領土を攻めるのはやめよう」という和睦から協力関係が発展。「どちらかが攻められたら助けにいく」という攻守同盟が、家康と信長の間で結ばれたとされている。

このようにして今川氏から離反して、織田氏との婚姻によって結びついた家康。亡き今川義元からもらった「元」の字を捨てたいと考えたのも自然なことだろう。

永禄6(1563)年に「家康」へと名が改められる。だが、たかが改名、されど改名。そこには家康の狙いがあった。

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