そうすることで、人類について注目すべき事態が明らかになった。すなわち、目覚めている時間の3分の1から2分の1のあいだ、私たちはいまを生きていないのである。
息をするように自然に、私たちは「いま、ここ」から「離脱」し、過去の出来事、想像上のシナリオ、その他の内面の黙想へと脳によって導かれる。
こうした傾向はきわめて基本的なので、「初期状態(デフォルト)」という名前がついているほどだ。
それは、ほかに何もしていないとき、また往々にしてほかに何かをしているときでも、私たちの脳が自動的に立ち返る状態である。
あなたはきっと、仕事に集中すべきときに、自分の心がまるで意志でもあるかのように、ふらふらとさまようのに気づいたことがあるはずだ。
私たちは絶えず、現在を離れて非線形の並行する精神世界へと入り込み、無意識のうちに分刻みで「内面」に吸い込まれている。
そう考えると、「精神生活」という表現はさらなる新たな意味を帯びる。つまり、私たちの生活の多くは「精神的」だということだ。
では、私たちが精神世界へと入り込むとき、往々にして何が起こるだろうか?
古代文化の「内なる声」との格闘
私たちは、自分自身に話しかける。
そして私たちは、自分自身の言うことに耳を傾ける。
文明の夜明け以来、人類はこの現象と格闘してきた。
初期のキリスト教神秘主義者は、黙想を邪魔する頭の中の声にひどく悩まされていた。それを悪魔の声だと考える者さえいた。
同じ頃、東洋では、中国の仏教徒が人の心象風景を曇らせる乱れた思考状態について理論を立てた。彼らはそれを「妄念」と名づけた。
それにもかかわらず、まさにこれらの古代文化が、内なる声は「知恵」であると信じていたのだ。
こうした信念こそ、黙祷や瞑想といった何千年も続いてきたいくつかの慣習を支えるものだ。
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