前編はこちら→「日本の宇宙少年、月面無人探査に挑む」
「コンサルティング会社で少しずつ昇進していたし、ずっと宇宙に関わる事業をやりたいという話をしていたので、給料が下がってもいいから週に1日か2日、このプロジェクトに割きたいと言えば交渉できるんじゃないかと思いました。だから、会社からOKが出たら自分がやってもいいと伝えました」
物静かで、決して前面に立つタイプではなかった袴田が、給料を下げ、一度は「無理」と考えた、すべてが暗中模索のプロジェクトの責任者になる。この決断からは、民間の宇宙開発に懸ける袴田の覚悟がうかがえる。その熱が伝わったのか、会社側は袴田の申し出を2つ返事で了承。2010年9月、袴田はコンサルタントとして働きながら、ホワイトレーベルスペースジャパンの代表に就任した。
ハクトを続けるか、解散するか
袴田たちは「世界初の民間による月面無人探査を目指す」とプレス発表を行い、吉田教授が試作した月面探査ローバーの運転体験などのイベントを積極的に開催した。その結果、一緒に月を目指したいというメンバーは増えた。吉田教授を中心に、ローバーの改良も進んでいた。
しかし、肝心の資金調達が難航を極めた。ハクトが開発している4輪ローバーと、2輪のローバーの両方を月に送る場合は最大30億円、2輪ローバーだけでも10億円弱が必要になるのに、会社を始めてから2年が経った2012年末の時点で、ハクトの主な収入源はイベント出演料や個人の募金などで、集まった金額は100万円に満たなかった。
当初、GLXPが定めたミッションの期限は2015年末だったから、誰が見てもあと3年で10億円を集めるのは難しいと判断するだろう。日本での資金調達をあてにしていた欧州チームは、2013年に入ってレースからの撤退を決断した。
このタイミングで、袴田とほかの2人のメンバーは腹をくくった。
「メンバーのひとりが、あと2年しかないんだから、今、本気を出したほうがいい、最後のチャンスだよ、と言ってきたんです。僕もここで本気を出さないと成功はしない、本気を出さないで失敗して後悔したくないと思って、もうひとりと3人で本気でやろうと決めました」
袴田は有給休暇を消化したのち、会社を退社。2人も仕事を辞めて、それぞれ貯金を切り崩しながらの生活が始まった。
この時期、チーム名をハクトに改めた。「月の兎」をイメージしたネーミングである。
チーム名も変えて心機一転、退路を断った3人は一丸となって奔走した。チームの運営母体となる会社の体制を整えたり、他チームと連携してミッション成功をさせる作戦の具体化も始めた。資金調達に繋げるためにメディア向けの公開実験の企画ができたのはこの時期である。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら