昔から、為政者にとって西欧の大学は厄介?
キーウ大学は1834年に建立された名門の大学で、ウクライナ民族運動の拠点でした。1894年にニコライ2世がロシア皇帝になります。彼は専制君主で、革新的な勢力を徹底的に弾圧します。
さらに、ロシアが第1次世界対戦に参加すると、このニコライ2世の命で、多くの若者が戦場に送られます。この時、キーウ大学の学生たちはロシア皇帝に逆らい、徴兵制の抗議運動を始めます。怒ったニコライ2世は、罰として大学の建物を「血の色」に塗りつぶさせたそうです。
大戦も後半の1917年になると、ロシアからの独立を目指し、キーウを中心に「ウクライナ人民共和国」が設立されます。大学はこの運動の中心となり、多くの人材を輩出しました。
しかし、キーウは、ロシア革命後に力を持った、ソビエトの赤軍に侵攻されます。この時も、多くのウクライナ人が犠牲になりました。
キーウの学生たちは、自ら前線に向かい戦いますが、ほぼ全滅に近い状況でした。結局、この国は1920年に消滅します。このウクライナ自立の運動は無駄だったのでしょうか。
その後、1991年の独立までウクライナはソ連の共和国の1つとしての運命をたどります。この長いソ連支配の間に、ウクライナの大学関係者を含めた知識人は、たびたび弾圧を受けます。大学は、その国のリーダーを育てる役割がありましたが、為政者にとっては面倒な場所でもありました。
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