キーウ大学の真っ赤な建物に込められた深い意味 過ちが繰り返されないように未来を学生と考える

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キーウ大学
キーウ大学。赤は「血の色」を意味します(撮影:中谷安男)
ウクライナの首都、キーウは美しい町でした。スラブ諸都市の母と呼ばれる街並みでは、11世紀から続くロシア正教の色とりどりの教会群が訪問者を虜にします。現存する最古のキエフの教会・聖ソフィア大聖堂は、白い壁に緑のドームが映えます。また7キロの城壁で囲まれるペチェールスカ大修道院の大聖堂は、純白の壁に金色のドームが輝きます。
この壮麗な街並みに、少し異様とも思える写真のような、真っ赤な建物があります。これは国立キーウ大学です。なぜ、ここだけ、けばけばしい赤なのでしょうか。全3回にわたり、今のウクライナとロシアの大学から見えてくる「学問の自由」を考えます。
(外部配信先では画像を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)
ペチェールスカ大修道院
ペチェールスカ大修道院(撮影:中谷安男)

昔から、為政者にとって西欧の大学は厄介?

キーウ大学は1834年に建立された名門の大学で、ウクライナ民族運動の拠点でした。1894年にニコライ2世がロシア皇帝になります。彼は専制君主で、革新的な勢力を徹底的に弾圧します。

さらに、ロシアが第1次世界対戦に参加すると、このニコライ2世の命で、多くの若者が戦場に送られます。この時、キーウ大学の学生たちはロシア皇帝に逆らい、徴兵制の抗議運動を始めます。怒ったニコライ2世は、罰として大学の建物を「血の色」に塗りつぶさせたそうです。

大戦も後半の1917年になると、ロシアからの独立を目指し、キーウを中心に「ウクライナ人民共和国」が設立されます。大学はこの運動の中心となり、多くの人材を輩出しました。

しかし、キーウは、ロシア革命後に力を持った、ソビエトの赤軍に侵攻されます。この時も、多くのウクライナ人が犠牲になりました。

キーウの学生たちは、自ら前線に向かい戦いますが、ほぼ全滅に近い状況でした。結局、この国は1920年に消滅します。このウクライナ自立の運動は無駄だったのでしょうか。

その後、1991年の独立までウクライナはソ連の共和国の1つとしての運命をたどります。この長いソ連支配の間に、ウクライナの大学関係者を含めた知識人は、たびたび弾圧を受けます。大学は、その国のリーダーを育てる役割がありましたが、為政者にとっては面倒な場所でもありました。

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