「僕は不憫じゃない」経済格差に少年が抱えた葛藤 50代になった現在まで忘れられない記憶

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「自転車の後ろの座席に、座布団を巻いてあるんですよ、いつでも逃げられるように。10キロくらい先の祖母の家に向かうんですが、その自転車が猛スピードで。後ろに乗って目をつぶって、母の腰に手を巻いて、振り落とされないように必死にしがみついている。

すごく怖いんですけれど、行く途中にパチンコ屋さんがあって、そのネオンがきれいだったこととか。何度も落とされたこともあるし、たまに車輪に前足が引っかかって血まみれになったりして。信号無視するので車にひかれないように、でも警察がいるなと思ったらぱっと自転車降りてやり過ごして、また乗ったりして」

なぜ父親が来たとき、そんなに急いで逃げなければいけなかったのかははっきりしませんが、母の背を抱きしめ、夜の街を疾走しながら見た光景は、いまも潤也さんのなかに鮮明に残っています。

徹底的な言葉の暴力で、人を潰そうとする母

学校では「問題の多い子」だったといいます。怒りやすく、すぐ手が出てしまうし、先生の言うこともきかなかったそう。

「『相手が悪いから、自分が怒るのは当たり前だ』と思っていました。そういう表現の仕方しか知らなかった、というと言い訳になるんですけれど。母は家でよく誰かと電話をして、汚い言葉で責め立てていて。自分が敵だと思った相手には、徹底的な言葉の暴力で、平気で潰しにかかる。それが日常風景だったので、何か不快なことがあればそういうふうにしていいんだ、って思っていた時期はありました」

そんな難しい子どもでも、幸い学校でいじめられることはなかったといいます。学校の友達も、周囲の大人も「なんか許してくれていた」のです。

「同じ団地の自治会長が、いわゆる世話焼きのおじいちゃんで、よく声をかけてくれて。当時は『僕だけ目の敵にして注意してくる』と腹を立てていたけれど、今になってふり返ると、うちの家庭環境もよく知っていて気にかけてくれてたんですね。そういうふうに、自分の知らないところで心配してくれる大人たちがいました」

一方で、母子家庭という自分の境遇に対する周囲の視線には、とても敏感でした。「かわいそう」という目で見られることが嫌で、親切で声をかけられても「つっかかってばかりいた」といいます。

「お父さんお母さんがいて子どもがいる、というのが『標準な形』だというのが、成長するにつれてだんだんわかってくる。すると『なんでうちだけ欠けてるの? “ふつう”じゃないの?』といって、母をすごく責めていた時期もありましたね」

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