もしかすると母親自身に「ふつうの家族」でないことへの負い目があり、潤也さんはそれを感じ取っていたのでしょうか。潤也さんは母親としょっちゅうぶつかり、明け方近くまで大声で怒鳴り合うのがつねだったといいます。
小学校の頃に参加していた、校外の野外活動クラブでも、潤也さんは「みんなと暮らしぶりが違う」ことを強く意識していました。
「周りは経済的にすごく恵まれた人ばかりで、自分は不憫だと思われているって過度に思い込んでいたんですね。いま思えばみんな一般的なサラリーマン家庭なんですけれど。
キャンプのときに食器を忘れたりすると、みんなふつうに『貸したるわ』って言ってくれるのに、素直に受けとれない。『情けは要らん』みたいな反発をして。
でも結局、食器がないと食べられないから借りるんですけれど、泣いちゃうんですね。食器忘れて借りるだけの話なんですけれど(笑)。
『ありがとう』って言うんですけれど、周りは『そこまで感謝してもらわんでもいいで』って。気持ちのうえで、余計な仕事をたくさんしてきたと思います」
子どもたちはきっと、潤也さんの家の事情はわからなくても、何がつらくて苦しいのか、気持ちはわかっていたのでしょう。
「馬鹿げている」と感じていた質問
潤也さんは当時、大人たちが好む「将来、何になりたい?」という質問を「馬鹿げている」と感じていました。
「『大人になったらこんなことをしたい』と思える人って、明日に希望が持てる人だけでしょ、と思ったんです。
僕は昨日、一昨日のことを思い出したくない。嫌な思い出が積みあがっていくだけだから、明日に対して何の希望も持てない。そんな人間に対して『将来、何になりたいの?』なんて質問をするのは、狂気でしかない。それに気づいてない馬鹿な大人ばっかりだ、みたいにひねくれていました」
何も知らない大人からしたら「ひねくれた」子どもだったかもしれません。でもこうして聞くと、潤也さんの言うとおり、そんな質問を無邪気に投げかけることの無神経さに気づかされます。
(この記事の後編:「イヤな奴だった」自暴自棄だった僕を変えたもの)
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