平家都落ちさせても嫌われた木曽義仲が不憫な訳 都の貴族たちはなぜ源頼朝に期待をかけたのか
古典『平家物語』は、源頼朝と木曽義仲を対比して次のように描く。
「中原廉定は都に上り、院の御所に参り、中庭において、関東の様子を詳細に申し上げたので、後白河法皇は感心された。公卿や殿上人も皆、笑顔で喜んだ。源頼朝はこのように立派であられるのに、木曽義仲は都を警護しているにもかかわらず、立居振る舞いも無骨で、言葉遣いも粗暴であること限りない。それも、もっともなことである。義仲は、2歳のときから信州木曽の山奥に、30歳まで住んでいたのだから。どうして、礼儀をわきまえていることがあろうか」(『平家物語』を筆者が現代語訳)
源頼朝の対応を喜ぶ貴族と、木曽義仲の無作法を嘲笑する貴族。頼朝と義仲の明暗が分かれた瞬間かもしれない。
さまざまな個性を持っていた頼朝
頼朝は後白河院に対し、3カ条の奏請(平家が押領した寺社領返付、王家領などの返付、平家方武士の処刑免除)をしたが、それを聞いた九条兼実(『玉葉』の著者)は「1つひとつの申し入れ、義仲とは比べものにならないくらい優れている」と絶賛したし、兼実は静賢法印(藤原信西の子、後白河法皇の近臣)から頼朝のありさまを「威勢厳粛、其性強烈、成敗分明、理非断決」と聞かされていた。
勇猛だけが取り柄の義仲にはない、さまざまな個性(長所)を頼朝は持っていたといえよう。
『吾妻鏡』には、頼朝が挙兵の際に遅延した上総介広常を厳しく叱責したために、広常は頼朝に指導者としての器を感じ服したとの逸話が載るが、これなども「威勢厳粛」を彷彿とさせる。
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