倶利伽羅峠で源氏に負けた平家武将の話が切ない 木曽義仲が大胆な奇襲、源平合戦の転換点に

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「火牛の計」で知られる倶利伽羅峠(写真:gonbe/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。源平合戦において、平家打倒で大きな役割を果たした源頼朝の従兄弟「木曽義仲」。とくに有名なのが、源氏が勢いづくきっかけの1つとなった「倶利伽羅峠の戦い」です。その詳細について歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

木曽(源)義仲は、源義賢の次男として、久寿元(1154)年に生を受けた。一説には、母は遊女であるという。父・義賢が、源義朝(頼朝の父)の長子・義平に襲撃され殺害された後は、信濃国の土豪・中原兼遠に匿われ、木曽の山中で成長する。

たくましく成長した義仲は、治承4(1180)年、以仁王(後白河法皇の第3皇子)の平家追討の令旨を受け、挙兵。翌年には、信濃の横田河原において、平家方の武将の城助茂の軍勢を破る。鎌倉を本拠にして同じく勢力を拡大していた源頼朝と一時、対立することはあったが、長男の義高を鎌倉に送り、和睦(1183年)。義仲に後顧の憂いがなくなる。

そして、越中と加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で木曽義仲と平維盛の軍勢が激突することになるのだ。寿永2(1183)年5月11日のことである。平家が陣を敷いた場所は、「四方は岩壁。搦手(からめて、背後)からは攻めてこれまい」(『平家物語』を筆者が現代語訳、以下同)と思っていた場所だった。

鏑矢を射るだけで勝負をさせなかった義仲

戦いの様子を、古典『平家物語』は次のように描く。

「さて、源平両軍は、向かい合って陣を構えた。陣の間はわずか3町(1町は約109メートル)ばかり。しかし、それからは、源氏も平家も進軍せず。源氏方から、15騎を楯の前に進ませて、鏑矢(かぶらや、音が出るように細工された矢)を平家の陣に射込む。平家方はそれをはかりごととは知らず、同じように、15騎を出して、15の鏑矢を射返した。

源氏が30騎を出して射ると、平家も30騎を出して、30の鏑矢を射る。50騎を出すと、50騎を出し、100騎を出すと、100騎で応戦する。双方、100騎が陣の前面に進むことになった。お互い勝負しようと気持ちがはやったが、源氏のほうがそれを制して、勝負をさせなかった」

義仲はなぜ勝負させなかったのか。それは日暮れを待っていたからだ。

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