「関東/関西」大抵の人が知らない地理感覚の起源 フロンティアは東にあり!「西高東低」の歴史

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そもそも日本という国は本当に1つだったのでしょうか?(写真:CG-BOX/PIXTA)
19世紀アメリカでは一攫千金を夢見た人々によるゴールド・ラッシュをきっかけに、西部開拓が急速に進みました。一方、日本で一旗揚げたいと願った人々は真逆の方角「東」を目指しました。古代の日本では、攻め入ってくるものも、贈り物も「西」からやってくることが多く、国の要所や関所は西の方角を意識して置かれてきたため、東側の開発はずっと遅れていたのです。
こうした歴史は、今では一般的な「関東」「関西」という地理感覚の由来にも関係があります。
日本中世史を専門とする本郷和人氏の40年にわたる研究の集大成『日本史の法則』より、一部抜粋、再構成してお届けします。

日本は1つの国という物語

私たちは、小学校のころからずっと、日本という国について「1つの言語を使う、1つの民族が、1つの国家を形成し、長い伝統を紡いできた」と教わってきました。近年でも、そうしたイメージで日本を語る政治家がいらっしゃいます。

ですがそれは、どこまで真実なのでしょうか? もちろんアイヌや沖縄の琉球王朝のことも考えなければなりませんが、とりあえずそれは措くとしても、そもそも日本という国は本当に1つだったのでしょうか?

この問いを考えていくうえで、まず押さえるべき視点は「日本とは、もともと西高東低の国だった」ということ。

奈良時代よりもさらに前。古代、聖徳太子が登場したとされる時代の日本人が注視していた方角は、あきらかに「西」でした。海の向こうに極楽浄土があるという沖縄のニライカナイ信仰や、神の贈りものは海を渡ってやってくるというパプアニューギニアのカーゴ信仰と同じように、古代日本にとっても新しい文物、文化は、海の向こうから来るものだった。そしてそれは東ではなく、西。つまり中国大陸や朝鮮半島へと至る海を越えてくるものでした。

神話には「三韓征伐を行った」という物語も出てきます。これについてエビデンスをもって扱うのは難しいのですが、新しい文化を求めて、海の向こうの朝鮮半島に直接、影響力を行使しようとした。そこに拠点をつくろうとする試みは、あったのかもしれません。

しかし、「それならなぜ奈良なんだ」という疑問も出てくるでしょう。西に注目していたのなら、海をはさんで大陸への玄関口となる九州、とくに博多地域に、古代日本の拠点があってもよかったのではないか。

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