「関東/関西」大抵の人が知らない地理感覚の起源 フロンティアは東にあり!「西高東低」の歴史
朝廷がずっと続けてきた行事に、固関(こげん)というものがあります。国が動くような重要な行事があるときに、関を固める。それが固関。朝廷にとっていちばん重要な行事は天皇の代替わりですが、それ以外でも、朝廷が大きな改革を行うときなどにも、この固関を行っています。
古代の関はすべて都の東にあった
今の日本史では、この固関について「反乱分子となる悪人が東に逃亡しないように関を固めた」と説明される。しかし私は逆だと思う。つまり、国が動く重要な局面で、その機に乗じて、まつろわぬ民が奈良、そして京の都に侵入してくるのを防ぐために固関を行っていた。実際に、この3つの関は、みな都の東に、東のほうを向いて置かれている。つまり大和政権の統治に服さない勢力は、必ず東から来るのです。
3つの関の東。すなわち関東。この「関東」という呼び方は非常に古くからあります。私はてっきり箱根関の東側が関東だと考えていたのですが、基本的には中部地方も関東だった。フォッサマグナも含めて、東はすべて関東だったのです。
しかしやがて当初は奈良、つづいて京都に本拠地を置いた朝廷の勢力が大きくなり、その勢力が東へ東へと伸びていくにつれ、「関東」は狭められていく。関東地方が、箱根の東側に限定されていくのは、いつの時期か、それはまだ私にはよくわからないのですが、ある時期から、そうした形になっていった。
しかし「3つの関の東が関東」という感覚は、かなり後代まで残ります。たとえば源頼朝(1147─1199)は、自分の統治に服す御家人たちに「勝手に朝廷から官位をもらってはいけない」と通達。ところがこれに最初に背いたのが弟の義経(1159─1189)で、後白河上皇(1127─1192)から官位をもらってしまう。
頼朝は激怒して、義経討伐ということになりますが、このとき義経のほかにも我も我もと官職を貰う御家人が出ています。頼朝は彼らに「それならば京都で後白河上皇にお仕えせよ。鎌倉に帰ってくるな」、そして「墨俣(すのまた)から東へ来たら、お前たちの首を刎ねる」と宣告した。
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