「関東/関西」大抵の人が知らない地理感覚の起源 フロンティアは東にあり!「西高東低」の歴史

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現在、奈良県桜井市の「纏向(まきむく)遺跡」を調査し、おびただしい成果が上がっていて、その結果、考古学では「これこそが邪馬台国だ」という意見が強くなっています。まだ九州説も健在ではあるのですが、すくなくとも大和王権の原型となる拠点が、纏向遺跡の場所にあったことは間違いない。

しかしなぜ奈良だったのか? 大陸、半島に近い都を置いたほうが便利ではないのか? ただし「近い」ということは、地政学的なリスクもあるのです。自宅でも、玄関のドアのすぐ前で寝るよりも、奥の部屋にいたほうが安心なのと同じで、もし敵が攻めてきたら、という事態を考えると、とりあえず物理的な距離をつくっておいたほうがいい。

つまり「距離は防御なり」。たとえば『三国志』でも魏の曹操にとって、呉は長江の大河の向こうにある国でした。そうすると侵攻するにしても、一大準備が必要になる。であれば「放置しておくか」という判断にもなるわけです。同様に劉備の蜀もまた、山脈の向こうにある国でした。

余談になりますが、「距離は防御」という観点からすると、安全保障の面で厳しい位置にある首都がソウル。ソウルは38度線のすぐ近くにあり、いざ戦争が起こった場合、すぐ侵攻にさらされることになります。

奈良の場合は、あそこが玄関口から距離をおいた、当時の日本でまず安心な場所だったのでしょう。さらにいうと、家屋でも奥座敷、奥の院というものがあります。その奥座敷にある地域が、おそらく伊勢だった。そこになにがあるかというと、伊勢神宮があるわけです。

そう見ると、古代日本のかたちは非常によくわかる。「もともと九州あたりにあった勢力が、瀬戸内海を進み、そして大和地方に入った」という神話の物語をどこまで史実として考えていいのか、それはひとつの大きな問題ではある。しかし、非常にありそうな話ではあります。九州なのか、奈良なのか。邪馬台国をめぐる論争についても、決着の方向性が見えてくるように思います。

白村江の大敗が古代日本を変える

西を向いていた大和政権は、その国運を賭けた決戦として663年に「白村江の戦い」を戦い、大敗北を喫します。この戦いのために天智天皇(626─672)は兵を集めたわけですが、兵たちは西から集められた。敗北の後、西国はかなり疲弊したことでしょう。

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