「関東/関西」大抵の人が知らない地理感覚の起源 フロンティアは東にあり!「西高東低」の歴史

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そうした中、天智天皇はなくなり、その後継の座を巡って、天智天皇の息子の大友皇子(648─672)と、弟の大海人皇子(631?─686)の間で戦いが起こる。672年の「壬申の乱」です。

吉野に退いていた大海人皇子は、このとき鈴鹿を通って尾張に抜ける。そして東国の兵を集め、岐阜の関ヶ原の辺りに本営を置いた。この布陣は、当然、後の不破関の地勢を意識しているわけで、西から大友皇子の軍勢が来たとしても、どうしても狭隘な道を通らなくてはいけない。そのため効率よく防衛ができる。さらに「白村江の戦い」の戦いで疲弊した西国ではなく、東国で兵を募ったことが大海人皇子の勝利に結びついた。

「壬申の乱」に勝利した大海人皇子は天武天皇となり、ふたたびまた大和で王権をつくります。その彼の急務が、白村江の大敗を経た日本をもう一度、強いかたちで、国としてまとめ直すことでした。

未開の地として開発が遅れていた東に目を向けた

国をしっかりとまとめ直し、国力を上げていかなければならない。しかしどうすれば底上げすることができるのか? そうした問題意識を天武天皇とその周囲は持っていた。天武天皇の政策を見ると、もともと東国で兵を集めて勝利した人だけに、それまでは未開の地として開発が遅れていた東に目を向けていたことがわかります。

この天武天皇の時代に、地方行政の単位として武蔵国であるとか、尾張国であるとか、日本全国に国が置かれた。北海道だけは明治になってからですが、東海道や東山道、南海道、西海道といった幹線も定められた。そのようにして「地方行政に励む」という形を、少なくとも机の上では整えています。

そうするいっぽうで、関所も整備した。まず北陸から都に至る北陸道には、現在の福井県に愛発関(あらちのせき)を置いた。そして美濃国、現在の岐阜県に不破関を置く。三重県にはかつて自分が通った鈴鹿関があります。この3つの関を閉ざしてしまえば、北陸道、東山道、東海道を押さえることができた。

福井、岐阜、三重。その関所を縦に結ぶラインで日本列島をちょうど東西半分に分けることができます。このラインから西が大和政権にとっての「こちら側」。東は関の外の「向こう側」だったわけです。

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