源頼朝が征夷大将軍に実は大して関心なかった訳 役職が偉いのではなく、偉い人が重役になる出世

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権限はポストに伴うのではなく、人についてきた時代でした(写真:TGM/PIXTA)
「いい国つくろう鎌倉幕府」の語呂で、鎌倉幕府が始まった年を覚えた方は多いのではないでしょうか。初代鎌倉幕府将軍、源頼朝は1192年に「征夷大将軍」のポストに任命されました。これによって頼朝が軍事のトップの座を獲得し、幕府を開くことができたという解釈が今までの主流だったため、「いい国つくろう鎌倉幕府」でよかったのです。
しかし、後年発見された史料によると、実は、彼はさほど「征夷大将軍」の名には関心がなかったことがわかりました。ここから、当時、権限はポストに伴うのではなく、人についてきた時代だったことが伺えます。
「『関東/関西』大抵の人が知らない地理感覚の起源」(8月12日配信)、「日本史の『もしも』を考えることで見えてくる本質」(8月19日配信)に続いて、日本中世史を専門とする本郷和人氏の40年にわたる研究の集大成、河出新書『日本史の法則』より、一部抜粋、再構成してお届けします。

摂関政治も院政も天皇の補佐役ではない

まず、摂関政治とはなにか。天皇が女性や子どもである場合に立つのが摂政。天皇が成人男性である場合に立つのが関白。だから摂政と関白が両方置かれるということはありえません。秀吉は関白になりましたが、通常は藤原氏が関白として政治を行った。

この摂政、関白について「天皇の補佐役」という言い方がよくされるのですが、厳密にいうとこれは間違いです。摂政と関白は、天皇の代わりに判断をする人なのです。

「補佐役」というと、天皇の周辺に左大臣や内大臣などのブレーンのグループがあり、関白はそのトップ、というイメージになります。しかしそうではない。天皇に代わって、天皇の役割を果たす。関白となった藤原氏は実質的にトップであり、政治的には天皇として扱われるのです。

この摂関政治に続いて現れたものが「院政」でした。藤原氏の場合は、娘を天皇に嫁がせて、天皇の義父、あるいは母方の祖父として関白となり、実権を握った。それが父方になるだけで、今度は「院政」になるのです。母方が権力を握ると摂関政治。父方であれば院政。これは非常にわかりやすいでしょう。上皇の院政もまた、補佐役ではなく、上皇が天皇の代理として、政治をやるものでした。

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