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源頼朝が征夷大将軍に実は大して関心なかった訳 役職が偉いのではなく、偉い人が重役になる出世

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頼朝は、その右近衛大将、将軍ではあったのですが「自分は、ほかの貴族の皆様とは違う。ただの将軍ではなく、大将軍にしてください」と言ってきたわけです。

おそらくそのことは、後白河上皇の存命中から申し入れていた。しかし後白河上皇の政治センスはさすがで、「あいつに大将軍などの名を許すとますますつけ上がる」ということで、就任を差し止めていたのだろうと思います。

ところが上皇が崩御し、もう怖いものがなくなった頼朝はあらためて朝廷に対して要求した。朝廷も「はい、差し上げましょう」ということになった。

『山槐記』の記事によると、大将軍でもなにがいちばん、縁起がいいか考えているのですね。中身ではない。あくまで縁起のよしあし。最初は「惣官」や、「征東大将軍」が候補に挙がった。しかし惣官は平宗盛(1147─1185)に、征東大将軍は木曾義仲に与えた官職。それで結局、平宗盛も木曾義仲も滅びてしまったわけで縁起が、非常に悪い。

ではいいのは何かということで「そうだ、坂上田村麻呂の成功例があるじゃないか」という案が出た。坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命され、それなりに功績を上げて帰還し、生涯をまっとうした。彼の就いた征夷大将軍が縁起がよくてふさわしいとなる。

頼朝は征夷大将軍をすぐに辞めている

頼朝も「ありがとうございます」といただくのですが、しかし実はすぐに辞めているのです。だから頼朝にとっても征夷大将軍はあくまで名前だけで、別にそのポストが武士にとってなにか特別な意味があるわけでもなければ、権限がそこに含まれているわけでもなかった。「これをいただいたからこそ、俺はこれをやることができるのだ」というなにか特別な意味は、何一つなかったのです。

そう考える1つの根拠としては、頼朝は、征夷大将軍を辞めてしまった後に、「前将軍家政所下文」という、役所が主体となった命令書を出しています。自分の役所のことを「前(さき)の将軍家の政所」と呼んでいるわけですが、1つだけ「前右大将家政所下文」という命令書も残っている。つまり頼朝本人にとっては、自分のことを「前の征夷大将軍」と呼ぶのも、「前の右大将」と呼ぶのも、それほど変わりはなくどちらも使っていたことがわかります。

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【将軍が偉いのではない。偉い人を将軍と呼ぶだけ】

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