倶利伽羅峠で源氏に負けた平家武将の話が切ない 木曽義仲が大胆な奇襲、源平合戦の転換点に

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そして、あたりが暗くなったころに、白旗を差し上げ、背後と前方から平家軍に奇襲をかけたのである。

平家方は狼狽し、瞬く間に崩れていく。「見苦しいぞ、引き返せ」と自軍の兵士を叱咤する者もいたが、もう遅かった。倶利伽羅峠の谷へ「われ先に」と逃げ込む平家の将兵たち。しかし、谷は深く「馬には人、人には馬が落ち重なり、落ち重なって」谷間は死骸の山で埋まり、川は血で染まる(『平家物語』)。

平維盛(平清盛の孫)らは加賀国へ退却することができたが、捕えられた者も多くいた。その中には、火打城の戦い(1183年に義仲が福井の火打城で維盛を迎え撃った戦い)で義仲を裏切った平泉寺の斎明もおり、義仲は「憎い奴だ」と言い放つと、斎明を斬らせた。

『平家物語』が描く砺波山(倶利伽羅峠)の戦いであるが『玉葉』には「官軍(平家軍)の先鋒が勝ちに乗じ、越中国に入った。木曽義仲と源行家そして他の源氏らと戦う。官軍は敗れ、過半の兵が死んだ」と簡潔に記されている。

一方、『源平盛衰記』には、義仲は400~500頭の牛の角に松明を灯して、平家の陣に突っ込ませたとある。いわゆる「火牛の計」だ。しかし、この逸話は、中国の戦国時代に斉国の将軍・田単が、火牛の計でもって、燕軍を破った故事をもとに創作されたと考えられている。

ただ1騎、義仲に立ち向かった平家武将

さて、この砺波山の戦いでは、平知度(清盛の7男)が戦死した。敗走する平家軍は、加賀国篠原に陣を布く。『平家物語』によると「人馬を休息」させようとしたが、そこにも、木曽軍がどっと流れ込んでくる。熱い太陽が照りつけるなか、両軍の兵士は汗水を流して戦うが、多勢に無勢、平家方は敗れていく。平家方の武蔵有国などは敵陣深く斬り込むも、矢を射尽くし、馬を射られて徒歩となり、刀を抜いて敵を数多倒すも、7~8本の矢に射られて、立ち往生したという。

将が討たれて逃げ惑う者が多いなか、ただ1騎、戦場に引き返しながら、木曽軍に立ち向かっている武将がいた。その武将は「赤地の錦の直垂(にしきのひたたれ、大将級の武将が鎧の下に着装した)に萌黄威の鎧を着て、鍬形を打った甲の緒を締め、金作りの太刀を帯び、滋籐の弓」を持ち、連銭葦毛の馬に乗っている。

名のある武将に違いないと思った木曽方の武将・手塚光盛は「味方の軍勢が皆、逃げ出すなか、ただ一騎残るとは。殊勝だ。私は信濃国の住人・手塚太郎光盛。そなたも名乗られい」と一騎打ちを申し込む。

しかし、その武将は「あなたを見下すわけではないが、故あって名乗れぬ。さぁ、寄ってこい」と言うと、馬を推し並べた。一騎打ちが始まるかと思われたが、そこに手塚の郎党が現れて、その武将に組みつく。しかし、その武将は鞍の前輪に押し付けて、敵の郎党の首をあっという間に取ってしまう。

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