「源頼朝」婿を殺害、その後の行動が理不尽すぎた 頼朝vs義仲の「生贄」にされた清水冠者の悲劇

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源頼朝の人物像に迫ります(写真:akg-images/アフロ)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』やフジテレビ系列のアニメ『平家物語』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。源平合戦において、平家打倒で大きな役割を果たした源頼朝の従兄弟「木曽義仲」。ところが頼朝と義仲は対立。武力衝突寸前という事態になったものの、義仲が長男の義高を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立します。その後、義高を襲った悲劇について、歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

源頼朝は治承4(1180)年8月中旬に挙兵したが、それからひと月も経たない9月上旬には、信濃国の源(木曽)義仲も平家方に対し、兵を挙げる。

頼朝は石橋山の戦いで敗北するも、その後、勢いを盛り返し、相模国の鎌倉を根拠とし、着々と地歩を築いていく。一方、義仲も信濃国を中心にして、勢力を拡大させ、養和元(1181)年には、平家側の越後国の豪族・城助茂の大軍を横田河原の戦い(長野市)で破る。

関東地方で勢力を拡大させていた両雄は、いずれ衝突する運命にあった。頼朝は、父・義朝の仇というべき平家よりも、義仲を大いに警戒していたふしがある(頼朝は平家に和睦を持ちかけたことがあるが、それも勢力を拡大させていた義仲への警戒心もあったと思われる)。

義仲を追討するために大量出兵した頼朝

頼朝が軍勢を信濃に侵入させたことで、義仲との間に対立が起こる。そのことを古典『平家物語』は次のように記す。

「寿永2(1183)年3月上旬に、源頼朝と木曽義仲が対立し、不和になったことがあった。頼朝は義仲を追討するために、10万余騎の軍勢で信濃に出兵する。義仲は依田城にあったが、それを聞いて、城を出て、信濃と越後の国境、熊坂山に陣を布く。頼朝は信濃の善光寺に到着。義仲は、中原兼遠の子・今井兼平を使者にして、頼朝のもとに遣わした」(筆者が『平家物語』を現代語訳、以下同)

頼朝と義仲の対立の要因は、当時、頼朝と敵対した源行家や志田(源)義広を義仲が庇護したことによるという。行家は、以仁王(後白河院の第3皇子)の平家討伐を命じる命令書(令旨)を、頼朝はじめ諸国の源氏に配布した人物だ。

義仲としては、平家との全面対決を前に、頼朝との抗争は避けたいところであった。そこで、義仲は腹心と言うべき今井兼平を頼朝の陣に派遣するのである。そして、兼平をして、頼朝にこう言わせる。

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