「源頼朝」婿を殺害、その後の行動が理不尽すぎた 頼朝vs義仲の「生贄」にされた清水冠者の悲劇
頼朝は怒り、堀親家らに義高を討つように命じる。これを聞いた大姫は、狼狽の余り、魂を消すほど意気消沈してしまう(4月21日)。義高は同月26日には「入間河原(埼玉県狭山市)において」殺された。このことは内密であったが、隠し切ることはできず、大姫に伝わってしまった。大姫は悲しみのあまり、飲食を絶ってしまったという(『吾妻鏡』)。
『吾妻鏡』によると、義高殺害後に、義高の一味が、甲斐や信濃に隠れ、反乱を企てているとの風聞があったという。そこで、頼朝は諸将に命じて、反逆者を捕縛しようとした。義高一味の反乱と言われる動きが、義高死去後に活発化したのか、それとも義高生存中から何らかの結び付きがあったかは不明だが、義高にそれほどの一味がいたということ自体が、頼朝にとっては、義高を殺すのに十分な理由だったろう。
北条政子の怒りを受けて義高を斬った家臣を斬首
ちなみに、主命によって、義高を殺した家臣のその後は悲劇そのものである。大姫の衰弱は、義高を殺したことによって生じたと、頼朝の妻・北条政子が怒り出したのだ。「もう少しやり方はあっただろう」と言って、義高を殺した家臣に怒りを向けたのであった。
その結果、義高を斬った家臣は、斬首。これは政子が頼朝に、この家臣の首を切れと強く迫ったためと言われている。首を切られた家臣は、かわいそうすぎるだろう。頼朝の命令に従って、義高を討っただけなのに、後でそれを責められて首を切られるとは。政子の言葉に反抗できない頼朝も「武家の棟梁」にしては情けないように感じる。
義高が斬られた埼玉県狭山市には、彼を祀る清水八幡がある。義高の死を悲しんだ入間の人々が、その遺骸を埋めて墓を築いた。その後、北条政子が墓を保護したので、同地には、社殿が築かれ、清水八幡と称されるようになった。室町時代(1402年)に清水八幡は、洪水により押し流されてしまい、成円寺の境内に移されたこともあったという。清水八幡が再び元の場所に戻ったのは、明治時代になってからである。
さて、義高の死から10年後の建久5(1194)年7月29日、大姫が重病となった。義高の死があってから、憔悴する一方だったと言われる。後鳥羽天皇への大姫入内を頼朝は考えていたようだが、それは叶うことなく、建久8(1197)年に大姫は亡くなる。
頼朝と義仲の対立は、義高のみならず、大姫といういたいけな少女の心をもむしばみ、最終的には命まで奪ったといえようか。
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