「木曽義仲」平家都落ちを果たしたのに没落した訳 後白河法皇との対立を引き起こしたある行動

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木曽義仲はなぜ後白河法皇と対立したのでしょうか(写真:チョコミント/PIXTA)
NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送で、源氏や平氏の歴史に注目が集まっています。平清盛の死後、破竹の勢いで進撃した木曽義仲(源頼朝の従兄弟)は、「平家都落ち」を実現します。にもかかわらず、その後、後白河法皇と対立することになりました。その背景には何があったのでしょうか。歴史学者の濱田浩一郎氏が解説します。

平家の動きを察知して比叡山に逃れた後白河法皇

平家の都落ち、その後の木曽義仲軍の入京という事態は、朝廷や後白河法皇にとっても一大事件であった。平家は後白河法皇を擁して西国に落ちようとしていたが、事前に法皇はそれを察知し、比叡山に逃れる。そのさまを古典『平家物語』は次のように記す。

「寿永2(1183)年7月24日の夜半ごろ、後白河法皇は、按察大納言資賢の子息・資時のみを供として、密かに御所を出られて、鞍馬に行かれた。しかし、鞍馬寺の僧侶どもは『ここはまだ都に近い。具合が悪いでしょう』と言うので、法皇は篠の峰、薬王坂という険しい山道を越えられて、横川の解脱谷にある寂場坊を御所とされた」(『平家物語』を筆者が現代語訳)。

『平家物語』によると、比叡山の寂場房を御所とされた後白河法皇だが、またもや衆徒らが「東塔にお出でください」というので、東塔の円融房へ入ることになる。そこを衆徒や武士らが警護したという。法皇は比叡山に入り、安徳天皇は平家と共に西国へ、女院たちは嵯峨・東山などの郊外へ難を避けられた。木曽勢の入京はまだない。

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