「木曽義仲」平家都落ちを果たしたのに没落した訳 後白河法皇との対立を引き起こしたある行動
5歳の第3皇子を「こちらへ」と招くと、その子は法皇を見て、泣いたという。よって、法皇は「お帰り」と言い、第3皇子を帰された。
今度は4歳の第4皇子を「こちらへ」と呼ぶと、その子は遠慮せず、法皇の膝の上に乗り、親しむ様子を見せた。法皇はこれを見て、涙を流しつつ「これこそ、私の本当の孫だ」と感激。第4皇子を新帝にすることを決意するのである。
新帝即位に介入した木曽義仲
『平家物語』では、皇位継承はスムーズにいったように描かれているが、現実はそうではなかった。
新帝即位に介入してきた男がいたのだ。義仲である。義仲は以仁王の遺児・北陸宮をかねてより推戴していたのだが、この宮こそ「義兵の勲功」ありとして、新帝に推したのであった(8月14日)。
この介入があったからだろう、占いにより、新帝が選ばれることになる。その結果は「第1に四宮」(後鳥羽天皇)、北陸宮は「第3」であった(8月18日)。
占いの結果を義仲に持参しても、彼は「北陸宮を第1に立てられるべきところ、第3とは、いわれのないことだ。今度の大功は北陸宮のお力である」(『玉葉』)と大いに不満だったようだ。
しかし、義仲の行動に対し、後白河法皇も不満というか怒りを持っていたに違いない。皇位の決定という院の権限に、功績ある武将とは言え、急に侵害してきたからだ。
法皇と義仲の対立の根源は、この出来事に一因があるように思う。法皇と義仲は不幸な出会い方をしたと言えよう。
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