「木曽義仲」平家都落ちを果たしたのに没落した訳 後白河法皇との対立を引き起こしたある行動
院や貴族たちからすれば、義仲らは無位無官の田舎者。一方、頼朝は最初に挙兵し、しかも元来は都において政治的地位を有していた。貴族たちの間にこうした心理があり、前述したような結果となったのだろう。義仲など頼朝の配下・代官にすぎないくらいに見ていたのだ。
ところが、頼朝への恩賞は見送られた。おそらく、義仲の抵抗があったからだろう。
8月10日、義仲は従五位下左馬頭兼越後守、行家は従五位下備後守に任命された。しかし、義仲がこれを不満に思い、5日後には越後守から伊予守となる。こうした恩賞に行家は不満であったようで「閉門辞退」したと『玉葉』は記す。厚い恩賞ではなかったということと、義仲との間に恩賞の差があるというのが行家の不満の根源だったようだ。その行家も16日には備前守に任じられることになる。
平家に対して行われた「解官」
源氏に対する恩賞配分と共に、平家に対しては官職を解く「解官」が行われ、8月6日には200人あまりが処分された。だが、平時忠(平清盛の義弟)だけはこの中に入っていなかったようだと『玉葉』は記す。
朝廷は、安徳天皇の帰京と、三種の神器(皇位の象徴とされる八咫鏡、草薙剣、八尺瓊勾玉)の返還交渉を時忠のもとに書状を遣わし行っていたので、それが原因と思われる。しかし、8月10日に返ってきた時忠の返書は、返還などを拒否する内容であった。天皇と三種の神器を失えば、手足をもがれたも同然であり、平家が拒否するのは当たり前であろう。
平家による安徳帝帰京の拒否によって、都の朝廷は新天皇の擁立に動く。8月18日、朝廷は、僅か4歳の尊成(高倉上皇の第4皇子)を皇位継承者とする。そして、同月20日には、三種の神器がないまま、践祚(せんそ、天皇の位を継受)し、後鳥羽天皇となるのである。
『平家物語』には、法皇が、都にいた故・高倉院の皇子(第3、第4)たちを呼び寄せて、皇位継承者を決める場面が描かれている。
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