「木曽義仲」平家都落ちを果たしたのに没落した訳 後白河法皇との対立を引き起こしたある行動
この異常事態を『平家物語』は「(都が)主のない里となってしまった」と心細げに記す。「この世が始まって以来、このようなことがあろうとも思われない」とも述べている。
しかし、都がいつまでも無主の地となることはなかった。木曽義仲や源行家(源頼朝の叔父)らの軍勢が入京してくるのである。
一般的には、この2人の軍勢だけが入京してきたかのように思われているかもしれないが、実はそうではない。源頼政の孫の有綱(摂津源氏)、高田重家、泉重忠、源光長(美濃源氏)、安田義定(甲斐源氏)、村上信国(信濃源氏)ら多様な地域の武士たちも京に入ってきたのだ。しかも、彼らは義仲に服するものではなく、独自に入京してきたのだから、義仲にとっては、頭が痛いことだったろう。
平家追討を命じられた木曽義仲
さて、義仲入京の前日、法皇は都に戻り、蓮華王院に入られた。義仲と行家は、蓮華王院の御所に召され、平家追討を命じられる(『玉葉(公家・九条兼実の日記)』)。
検非違使の別当が殿上の縁から、2人にこれを命じたのだが、義仲・行家ともに「地にひざまずいて」承ったと言われる。御所に入ってくるとき、2人とも相並んで、前後することはなかったという。『玉葉』はこれを「争権の意趣」を知ることができると見ているが、妥当であろう。
『吉記(公家・吉田経房の日記)』には、義仲は錦の直垂、黒革威の甲、行家は紺の直垂、黒革威の甲の姿で参上したと記されている。吉田経房は2人の姿を見て「夢か夢でないか。筆の及ぶところではない」(『吉記』)と、院に拝謁するにはあまりにもみすぼらしいと驚いている。
ともかく、法皇が平家追討を義仲らに命じたことにより、源氏は官軍、平家は賊軍となったのである。7月30日には、院御所での評定があり、源氏の武将たちの恩賞が決められた。
勲功の第1は平家を都から追い出した義仲と思われるかもしれないが、実際はそうではなかった。勲功第1は、いまだ上洛さえしていない源頼朝。そして、第2が義仲、第3が行家という順位となる。
これはなぜであろうか。
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